FIGARO Japonの6月号掲載の川上未映子氏のエッセイ『あらゆる魔法をオンにして』に、この投稿のタイトルの文言があった。
高級ブランドの服を何の創意も疑いもなく身に着けていると、ファッションが他人の威光を借りた自己実現である以上、「あなたはお金を払っただけ」というある種の真理が、ある種の人々を白けさせると。
よく考えられていないが、これはもうちょっと掘り下げられるテーマかもしれないなあ。
<<追記>>
よくよく見ると、上の川上氏のエッセイは最終話だった。
ふと、その1号前の5月号のエッセイを自分は読んだのか確かめてみたら、まだ読んでいなかった。
テーマは同じくファッション。
そして、この回にも「ファッションは他人の威光を借りた自己実現」のくだりが登場していた。
わたしたちが買っているのはまぎれもなく洋服だけれど、しかし同時に、そのブランドを着ることのできる自分、みんなが欲望する洋服を着ている自分、のようなものも同時に買っている
その意味で、おしゃれというのは「他人の威光を借りた自己実現」にほかならないと。
みんな誰かの素敵さを借りている。その対価が大きければ大きいほど自己実現の輝きもまた大きくなる、とくればいいけれど、しかしそれは、つねに時と場所を選ぶ、というのも面白い
話は少し飛んで、彼女が、ブランドと初めて触れた小学校高学年のときの想い出について。
デザインとか縫製とか、そういうものの良さとか一切わからないのに、その名前がついているだけで、そしてその凄みを保証するあんばいでつけられた高い値段その2点に「へええ」となり、ほかの洋服とは別格の何かであるということにほぼ無条件に同意した…… それまでは、模様とか柄とか色とか形とか、そういう基準しかなかったささやかなおめかしの領域に、初めて「外部」があらわれたのである。
“無条件に同意”っていうのは、よくわかるなー。
自分も中学生頃そうだった記憶がある。
今から思うと、とっておきが一枚だけあるのって、一枚もないのより切なかったりするもの
なるほどねぇ。
川上さんのエッセイ、フィガロのは終ってしまったが、ananでの連載は続いているので、これからも時々は覗いてみようと思う。