映画『未来よ こんにちは』にもチラっとだけ登場していた、ユナボマーことセオドア=カジンスキー著の『The Unabomber Manifesto』。
いずれちゃんと読み返す用に、日本語翻訳を残しておく。
原文はこちら。
イントロダクション
一.産業革命とその帰結は人類にとって災厄だった。これらは、「先進」諸国に住む我々の平均寿命を大きく延ばしてきたが、社会を不安定にし、生を満たされないものにし、人類に侮辱を味あわせ、心理的苦痛を(第三世界では肉体的苦痛も)蔓延させ、自然界に重大な被害を負わせてきた。テクノロジーの継続的開発はこの情況を悪化させるだろう。テクノロジーは確実に人類により大きな侮辱を味あわせ、より多くの被害を自然界に負わせ、多分より大きな社会崩壊と心理的苦痛を導き、「先進」諸国にさえも肉体的苦痛を増加させることになろう。
二.産業-テクノロジーシステムは、今後も存続するかもしれないし、崩壊するかもしれない。存続する場合、それは最終的に低レベルの肉体的・心理的苦痛を達成する「かもしれない」が、それは、長く非常に骨の折れる適応期間を経験した後のことでしかなく、人類とその他多くの生命体を工学的産物へと、社会機構の単なる歯車へと永続的に還元させるという犠牲を払った上でのことでしかない。さらに、このシステムが存続するなら、その帰結は必至であろう。このシステムを改良・修正して人々から尊厳と自律性を剥奪させないようにする方法などないのだ。
三.このシステムが崩壊するとしても、その帰結は非常に悲痛なものとなろう。しかし、システムが大きく成長すればするほど、その崩壊の結果はより破滅的なものとなる。従って、システムを崩壊させねばならないのならば、後々に崩壊させるよりもすぐさま崩壊させた方が良い。
四.だから、我々は産業システムに対する革命を主張する。この革命は暴力を行使するかもしれないし、しないかもしれない。突然起こるかもしれないし、数十年に及ぶ比較的段階的なプロセスとなるかもしれない。どうなるか予測することなどできない。しかし、我々は、産業システムを憎んでいる人々が、このような社会形態に対して革命の道を用意するために取らねばならない手段を非常に大まかに概略する。これは「政治」革命にはならない。目的は、政府の転覆ではなく、現行社会の経済・テクノロジー基盤の転覆になるだろう。
五.この論文では、我々は、産業-テクノロジーシステムから生じる否定的発展のいくつかにのみ焦点を絞る。他の否定的発展については、簡単にしか触れないか、もしくは、全く無視する。だからといって、そうした発展が重要ではないと見なしているわけではない。現実的な理由から、人々が不充分にしか注目してこなかった領域や、我々が新たに述べることの出来る領域に議論を限定せざるを得ない。例えば、環境悪化や原生自然の破壊について我々は非常に重要だと見なしているのだが、環境保護運動・原生自然保全運動が充分発達している以上、ほとんど書くことはない。
現代左翼の心理
六.我々が、深く問題を抱えた社会に生きていることにほとんどの人が同意するだろう。現代社会の異常さを最も広範に示していることの一つが左翼である。従って、左翼の心理に関する議論は、現代社会全般の諸問題に関する議論のイントロダクションとしての役目を果たすことができよう。
七.だが、左翼とはなんだろうか?二〇世紀前半、左翼は社会主義と実際に同一視することができた。今日、この運動は断片化し、誰のことを左翼だと適切に呼べるのかはハッキリしていない。この論文で左翼について語る際、我々が主として念頭においているのは、社会主義者・集産主義者・「政治的に正しい」タイプ・フェミニスト・ゲイと障害者活動家・動物の権利活動家といった人々である。しかし、こうした運動の一つに関わっている全ての人が左翼というわけではない。左翼について論じる際に我々が批判しようとしているのは、一つの運動やイデオロギーではなく、一つの心理的タイプ、もっと厳密に言えば関連する様々なタイプの集積である。従って、「左翼」という言葉の意味は、左翼の心理を論じる中でもっとはっきり現れてくるだろう。(二二七段落~二三〇段落も参照)
八.そうだったとしても、左翼に関する我々の概念は、我々が望むよりも遥かに不明瞭であり続けるだろうが、その是正方法は見当たらないように思える。ここで行おうとしているのは、現代左翼の主たる原動力だと我々が考える二つの心理的傾向を、大雑把で近似的なやり方で、示すことなのである。我々が、左翼の心理について「完全な」真実を伝えているなどと主張するつもりはない。また、ここでの議論は現代左翼だけに限定される。この議論が一九世紀と二〇世紀初頭の左翼にもどの程度まで適用できるのかという問題については議論の余地を残しておく。
九.現代左翼の根底にある二つの心理的傾向を、我々は「劣等感」と「過剰社会化」と呼んでいる。劣等感は現代左翼全体の特徴であり、過剰社会化は現代左翼の特定部分だけが持つ特徴である。ただ、この特定部分は非常に大きな影響力を持っている。
劣等感
一〇.ここで意味する「劣等感」は、非常に厳密な意味での劣等感だけではなく、もっと広い範囲の関連特性のことである。例えば、低い自尊心・無力感・抑鬱傾向・敗北主義・罪悪感・自己嫌悪などだ。我々は、現代左翼はこうした感情を持つ傾向があり、こうした感情が現代左翼の方向性を決める上で決定的に重要なのだ、と主張する。
一一.我々は、誰かが自分について(もしくは自分が一体感を持っているグループについて)何か言われたことを侮蔑的だと解釈した場合、その人は劣等感や低い自尊心を持っている、と判断する。この傾向はマイノリティ権利擁護者に目立っている。これは、自分が権利を擁護しているマイノリティグループに自分が属しているかどうかとは無関係である。こうした人々は、マイノリティを指し示すために使われる言葉に過敏である。アフリカ人に対する「ニグロ」・アジア人に対する「オリエンタル」・障害者に対する「かたわ」・女性に対する「スケ(chick)」という言葉は、元々は侮蔑的な含意を持っていなかった。「ねぇちゃん(broad)」と「スケ」は、「奴(guy)」「野郎(dude)」「若造(fellow)」の女性版に過ぎなかった。否定的な含意をこうした言葉に添えたのは活動家自身だった。動物の権利擁護者の中には、「ペット」という言葉を拒絶し、「動物の友達」で置き換えることを主張しさえする者もいる。左翼の人類学者は、原始民族について、ひょっとすると否定的だと解釈できるかもしれないと思われることを述べないよう躍起になっている。こうした人々は「原始」という言葉を「無文字」に変えたがっている。原始文化が現代の文化より劣っていると示しかねないことについては、ほとんどパラノイアのようだ。(だからといって、原始文化が現代のものに確かに劣って「いる」というわけではない。ここでは単に、左翼的人類学者の過敏性を指摘しているだけである。)
一二.「政治的に正しい」用語について最も敏感な人々は、平均的な黒人ゲットー居住者・アジア移民・虐待を受けた女性・障害者ではなく、少数の活動家であり、その多くが「抑圧されている」グループに属してさえいない社会の特権階層出身の人である。政治的正しさは、その牙城を大学教授の中に持ち、充分な給与で安定して雇用され、その大部分は中産階級家族出身の異性愛者の白人男性である。
一三.多くの左翼は、か弱い(女性)、敗北した(北米インディアン)、不快だ(ホモセクシュアル)など何らかの劣等イメージを持つグループの諸問題に極めて強く共鳴している。左翼自身は、こうしたグループは劣っていると感じている。自分がそのような感情を持っていると左翼が認めることはないだろうが、こうしたグループを劣っていると見なしているからこそ、その諸問題に共鳴しているのだ。(女性やインディアンなどが劣って「いる」と述べているのではない。左翼の心理を強調しているだけのことである。)
一四.フェミニストは、女性が男性と同じぐらい強く、能力を持つと是が非でも証明しようと切望している。明らかに、女性は男性と同じぐらい強くも能力も「ない」かもしれない、という恐怖に絶えず悩まされているのだ。
一五.左翼は、強く、善良で、成功しているというイメージを持つものを憎むことが多い。左翼は米国が嫌いで、西洋文明も嫌いで、白人を嫌いで、合理性が嫌いだ。左翼が西洋などを憎んでいる理由は、明らかに、その真意とは合致していない。左翼は、自分が西洋を憎んでいるのは、それが好戦的で帝国主義で性差別で民族中心的だからだなどと「言う」が、こうした同じ欠点は社会主義諸国や原始文化にも見られている。左翼は、そうした欠点の言い訳を見つけ出す。良くてもその存在を「しぶしぶ」認める程度である。一方、左翼は西洋文明にあるこうした欠点を「熱心に」指摘する(多くの場合、大きく誇張する)。つまり、こうした欠点は、左翼が米国と西洋を憎む本当の動機ではないことは明らかなのだ。左翼が米国や西洋を憎むのは、それらが強力で成功しているからである。
一六.「自信」「自立」「発意」「冒険心」「楽天主義」などはリベラルと左翼のボキャブラリーではほとんど何の役割も果たしていない。左翼は反個人主義で、集団主義賛同なのだ。彼は、社会が万人の欲求を万人のために解決し、万人を保護してほしいと思っている。彼は、自分自身の問題を自分で解決し、自分自身の欲求を満たす能力について内面的自信感を持っているようなタイプの人間ではない。左翼は、競争という概念に敵対する。なぜなら、心の奥底で、自分が敗北者のように感じているからだ。
一七.現代の左翼インテリを魅了する芸術形態は、下劣さ・敗北・失望に焦点を当てていることが多い。さもなくば、それらは、理性の制御を振り払いながら、狂乱的な調子を取る。あたかも合理的計算を通じて何かを達成するという希望はなく、後には瞬間の感覚に没頭することだけが残されているかのようである。
一八.現代の左翼哲学者は、理性・科学・客観的現実を却下しようとし、全てのことが文化的に相対的であると主張することが多い。人は、科学的知識の基盤について、そして、もしあるとすれば客観的現実という概念を提起できる方法について、重大な疑問を問うことができる。これは真実である。しかし、明らかに、現代左翼哲学者は、知識の基盤を体系的に分析する冷静沈着な論理学者ではない。彼らは、真実と現実に対する攻撃に深く感情的に関わっている。彼らがこうした概念を攻撃するのは、自分自身の心理的欲求のためである。一例を挙げると、彼らの攻撃は敵対心のはけ口であり、それが成功する限り、その攻撃は権力を求めた欲動を満たしてくれる。もっと重要なことだが、左翼は科学と理性を憎んでいる。それらがある種の信念を真実(つまり、成功・優越)だと分類し、他の信念を誤謬(つまり、失敗・劣等)だと分類するからである。左翼の劣等感は余りにも根深いため、いくつかの事項を成功だとか優勢だとかと分類し、他の事項を失敗だとか劣等だとか分類することに耐えられない。多くの左翼が精神疾患とIQテストの有用性とを拒否していることの根底にもこれがある。左翼は、人間の能力や行動の総称的説明に敵対する。こうした説明は、一部の人が他者に比べて優れていたり劣っていたりしているように思わせることが多いからである。左翼は、個人の能力や能力の欠如は社会のせいだとしたがる。つまり、ある個人が「劣って」いるのなら、それはその人の責任ではなく、社会の責任なのである。その人は適切に養育されなかったのだから。
一九.左翼は、多くの場合、劣等感のために自慢屋・利己主義者・いじめっ子・自己宣伝家・無情な競争者になるといった類の人ではない。この種の人は、自分への信頼を完全に失ってはいない。こうした人は、権力と自尊心の感覚が欠如していても、強くなる能力を持つ自分自身を思い描くことができ、自分を強くしようという努力がその不愉快な行動を作り出す。(原註一)しかし、左翼はそうするにももはや手遅れなのだ。その劣等感は余りにも根深いため、個人として強く価値がある自分自身を思い描くことができない。だからこそ、左翼の集団主義なのである。その人は、自分が同一視している大規模組織や大衆運動のメンバーとしてのみ強さを感じることができるのである。
二〇.左翼の戦術が持つマゾヒスト的傾向に目を向ければよい。左翼は、自動車の前に横たわって抗議する。警察やレイシストが自分達を虐待するよう意図的に挑発する。こうした戦術は効果的な場合が多いのかもしれないが、多くの左翼は目的達成の手段としてこれらを使っているのではなく、マゾヒスト戦術を「好んでいる」から使うのだ。自己嫌悪が左翼の特性である。
二一.左翼は、自分達の活動主義を動機付けているのは同情や道義であると主張するかもしれない。道義は過剰社会化タイプの左翼にとって確かに一つの役割を果たしている。しかし、同情と道義は左翼活動主義の主たる動機にはなりえない。敵対心も左翼の行動の重要要素であり、権力志向もそうである。それ以上に、左翼の行動の多くは、左翼が援助しようとしていると主張している人々にとって利益になるように合理的に計算されてはいない。例えば、アファーマティヴ=アクション(積極的改善措置)が黒人にとって良いことだと信じているのなら、敵対的・独善的な言葉でアファーマティヴ=アクションを要求することは道理にかなっているのだろうか?明らかに、外交的で融和的なアプローチ--アファーマティヴ=アクションが自分達を差別すると考える白人に対しては少なくとも口頭や象徴的な譲歩をするといった--を取る方がもっと生産的だろう。しかし、左翼活動家はこうしたアプローチを取らない。自分たちの感情的ニーズを満足させてくれないからだ。黒人を助けることは左翼の真の目標ではない。逆に、人種問題は、左翼が自分自身の敵意や権力を求めて挫折したニーズを表現する口実としての役割を果たしている。そのようにすることで、左翼は実際には黒人を傷つけている。大多数の白人に対する活動家の敵対的態度は人種的憎悪を激化させることが多いからだ。
二二.この社会に全く社会的問題がなければ、左翼は大騒ぎする口実を作り出すために問題を「でっち上げ」なければならなくなるだろう。
二三.強調しておくが、前述したことが左翼とみなすことができる全ての人について正確に記述しているなどと偽るつもりはない。左翼主義の一般的傾向を大雑把に示しているだけである。
過剰社会化
二四.心理学者は「社会化」という言葉を使って、子供達が社会が求めるように考え、行動するよう訓練されるプロセスを示している。自分がいる社会の道徳規範を信じ、それに従い、その社会の機能的な一部として充分うまく調和しているならば、その人は充分社会化されている、と言われる。多くの左翼が過剰に社会化していると述べるのは意味がないように思えるかもしれない。というのも、左翼は反逆者だとみなされているからである。しかし、この立場は擁護できる。多くの左翼は思われているほども反逆者ではない。
二五.現代社会の道徳規範はあまりにも厳しいため、完全に道徳的なやり方で考え、感じ、行動できる人は誰もいない。例えば、誰かを憎んではならないとされているが、自分で認めようが認めまいが、ほとんど誰もが誰かを憎んでいる時がある。余りにも社会化しすぎて道徳的に考え、感じ、行動しようとすることが大きな重荷になっている人々もいる。こうした人々は、罪悪感を避けようとして自分の動機について自分自身を欺き続け、実際にはもともと道徳的ではない感情と行動について常に道徳的説明を見つけ出さねばならない。こうした人々を描写するために「過剰社会化」という言葉をここでは使う。(原註二)
二六.過剰社会化は低い自尊心・無力感・敗北主義・罪悪感などを導きうる。現代社会が子供達を社会化させるときのもっとも重要な手段の一つは、社会が期待していることと逆の行動や発言を恥ずかしいと思わせることである。これが過剰になされたり、特定の子供がこうした感情に対して特に敏感だったりすると、その人は結局「自分自身」を恥ずかしいと思うようになってしまう。それ以上に、過剰社会化した人の思考と行動は、少しばかり社会化しただけの人の思考と行動よりも、もっと制限されてしまう。大多数の人々は相当量の下品な行動を行う。嘘をつき、ちょっとした盗みをし、交通違反をし、仕事をサボり、誰かを憎み、悪意あることを言い、他の人を出し抜くためにズルい計略を使う。過剰社会化した人はこうしたことを行うことができなかったり、行ったとしても恥と自己嫌悪の感覚が生まれたりしてしまう。過剰社会化した人は、一般に認められた道徳とは逆の考えや感情を、罪悪感なしに経験することすらできない。「汚れた」考えを思うことができないのだ。そして、社会化は単に道徳の問題だけではない。我々は、道徳の見出しの下には分類されない多くの行動基準を支持するよう社会に順応させられている。つまり、過剰に社会化された人は、心理的拘束に束縛され、社会が自分のために敷いたレールの上を走ることに自分の人生を費やす。過剰社会化した人の多くに、このことは、束縛感と無力感を生み、それが極めて困難な状況を作りかねなくなる。我々は、過剰社会化は人間がお互いに押し付けあっている重大な残虐行為の一つなのだ、と提言する。
二七.我々は、現代左翼の非常に重要かつ影響力のある部分は過剰に社会化されており、その過剰社会化が現代左翼主義の方向を決定する上で非常に大きな重要性を持っている、と主張する。過剰社会化されたタイプの左翼は、知識人だったり、アッパーミドルクラスの成員だったりすることが多い。大学の知識人(原註三)は社会の中で最も大きく社会化された部分であると同時に、もっとも左翼的な部分でもある。
二八.過剰社会化されたタイプの左翼は、自分の心理的拘束から抜け出そうとし、反逆することで自分の自律性を主張しようとする。しかし、その人は、最も基本的な社会的価値観に対して反逆するだけ充分強くはないものである。一般的に言って、現代の左翼の目標は、一般的に認められている道徳と衝突することでは「ない」。逆に、左翼は一般的に受け入れられた道徳原則を受け入れ、自分のものとして承認し、社会の主流はその原則に反していると非難するのである。例を挙げよう。人種間の平等・性別間の平等・貧者の支援・戦争に対立するものとしての平和・非暴力全般・表現の自由・動物に対する優しさ。もっと根源的には、社会に仕えることが個人の義務であり、個人を世話するのが社会の義務だというわけだ。こうしたこと全ては、現代社会に(少なくとも、中産階級と上流階級に)長い間深く根差してきた価値観である。(原註四)こうした価値観は主流のコミュニケーションメディアと教育システムが提示している資料の大部分で、明に暗に、表現されたり前提とされたりしている。左翼は、特に過剰社会化されたタイプの人々は、通常、こうした諸原則に反逆せず、社会はこうした諸原則に従っていないと主張する(ある程度までは真実だが)ことで社会に対する敵対心を正当化するものである。
二九.ここで、過剰社会化された左翼が現代社会の伝統的態度に対して、反逆しているふりをしながらそれへの自分の愛着を示すやり方を例示しよう。多くの左翼は、黒人を地位の高い仕事に移すべく、黒人の学校教育を改善すべく、そうした学校にもっと多くの金をつけるべく、社会的恥辱と見なされている「底辺層」の黒人の生活様式を改善すべく、アファーマティブアクションを強く要求する。左翼は黒人をシステムに統合し、アッパーミドルクラスの白人同様、企業の幹部に・弁護士に・科学者にしたがっている。左翼は、自分たちが最もやりたくない事は、黒人を白人のコピーにすることだと答えるだろう。逆に、アフリカ系アメリカ人文化を保護したがっているのだ。だが、何が、アフリカ系アメリカ人文化の保全だというのだろうか?黒人的食べ物を食べ、黒人的音楽を聞き、黒人的服を着て、黒人的教会やモスクに行くこと程度のものでしかありえない。つまり、表面的な事柄でしか自己表現できないのである。全ての「本質的な」点において、過剰に社会化されたタイプの左翼は、黒人を白人中産階級の理念に従わせたがっている。技術を学ばせ、重役や科学者にし、地位という階段を上ることに人生を費やさせることで、黒人が白人と同じぐらい優秀だと証明したいのだ。黒人の父親に「責任感を持って」欲しい、黒人のギャングに暴力的ではなくなって欲しい、といった具合だ。しかし、これらは、まさしく、工業テクノロジーシステムの価値観なのである。このシステムは、人が学校で勉強し、尊敬できる仕事に就き、地位という階段を上り、「責任ある」父親であり、暴力的ではない限り、どんな音楽を聞いているか、どんな服を着ているか、どんな宗教を信じているか等は気にしない。事実上、どれほど否定しようとも、過剰に社会化された左翼は、黒人をシステムに統合し、その価値観を採用させようとしたがっているのだ。
三〇.我々は、左翼が、過剰社会化したタイプであっても、現代社会の根本的価値観に対して反逆し「ない」と主張しているのでは断じてない。確かに反逆するときもある。過剰社会化した左翼の中には、肉体的・物理的暴力を行使することで、現代社会のもっとも重要な諸原則の一つに反対しさえしてきた者もいる。彼ら自身の説明によれば、彼らにとって暴力は「解放」の一形態だという。言い換えれば、暴力をふるうことで、自分に教え込まれてきた心理的拘束を打破するのである。彼らが過剰社会化しているがゆえに、こうした拘束が縛りつけてきたのは、他者よりも自分自身だったのだ。しかし、彼等は通常自分達の反逆を主流となっている価値観という点で正当化するものである。彼等は、暴力を行使する場合に、自分達はレイシズム等のようなことに対して戦っている、と主張する。
三一.我々は実感している。上述したような左翼心理に関する簡潔なスケッチに対して、多くの反論が提起され得るだろう。現実の情況は複雑であり、その完全な記述のようなことをしようとすれば、必要なデータを手に入れることができたとしても、数巻の書物になってしまう。我々の主張は、現代左翼の心理にある二つのもっとも重要な傾向を非常に大雑把に示しているに過ぎない。
三二.左翼に関わる諸問題は、現代社会全体の諸問題を暗示している。低い自尊心・抑鬱傾向・敗北主義は左翼に限定されるものではない。これらは左翼に特に目立っているものの、現代社会に蔓延している。そして、現代社会はそれ以前の社会よりもはるかに大きく我々を社会化しようとしている。我々は、専門家から、どのように食べるべきか、どのように運動すべきか、どのように愛し合うべきか、どのように子供を育てるべきかといったことを指示されさえしているのである。
パワープロセス
三三.人類は、我々が「パワープロセス」と呼ぶことへの欲求(たぶん、生物学的に由来する)を持っている。これは、権力欲(これは広く認められている)と密接に関連しているが、全く同じではない。パワープロセスには四つの要素がある。その内三つの最も明確なものを、我々は目標・努力・目標達成と呼んでいる。(誰もが、努力をすれば達成できる目標を持ちたいと思っており、自分の目標の少なくともいくつかを達成することに成功したいと思っている。)四つ目の要素は、もっと定義しにくく、すべての人に必要なわけでもない。我々は、それを自律性と呼んでいるが、これについては後で論じる(四二段落~四四段落)
三四.自分がほしいものを望んだだけでそれを手に入れることのできる男という仮説的事例を考えてみよう。こうした男は権力を持つ。しかし、彼は重大な心理的諸問題を発達させるだろう。当初、彼は楽しくて仕方がないだろう。しかし、徐々に、彼はひどく飽きてきて、堕落してくる。最終的に、彼は臨床的に鬱状態になってしまうかもしれない。歴史は有閑貴族が退廃的になる傾向を持っていることを示している。これは、自分の権力を維持するために闘争しなければならない戦闘貴族には当てはまらない。しかし、暇を持て余し、何の不安もなく、努力する必要のない貴族は、権力を持っているとしても、退屈し、快楽主義で、道徳心も低下してしまうものである。これは、権力だけでは充分ではないことを示している。人は、自分の権力を行使する対象となる目標を持たねばならないのだ。
三五.誰もが目標を持っている。少なくとも、物理的な生活必需品を獲得しなければならない。食物・水・何らかの衣類と住処が気候に応じて必要となる。しかし、有閑貴族はこうしたことを努力せずに手に入れる。だから、その人は退屈し、堕落するのである。
三六.重要な目標を達成しないことは、その目標が肉体的必要であった場合は死をもたらし、目標を達成しなくとも生存できる場合はフラストレーションをもたらす。人生を通じて常に目標を達成できない場合、敗北主義・低い自尊心・抑鬱状態をもたらす。
三七.つまり、重大な心理的諸問題を避けるために、人類は、達成するために努力が必要な目標を必要とし、妥当な割合で自分の目標を達成することに成功しなければならないのである。
代償活動
三八.しかし、すべての有閑貴族が退屈し、堕落するわけではない。たとえば、裕仁天皇は、退廃的享楽主義に身を埋める代わりに、海洋生物学に献身し、この分野で有名になった。自分の身体的欲求を満足させるために努力しなくてもよい場合、人は自分で作為的な目標を設定することが多い。そして、多くの場合、身体的欲求を探究する場合に使うのと同じエネルギーと感情的関わりとを使ってこうした目標を追求するものである。だからこそ、ローマ帝国の貴族は文学的自負を持っていたのであり、数世紀前の多くの欧州貴族は、明らかに肉を必要としていなかったにもかかわらず、莫大な時間とエネルギーを猟に費やした。富を念入りに誇示することで地位を競う貴族もいれば、科学に目を向けた裕仁のような少数の貴族もいた。
三九.ここでは「代償活動」という言葉を使い、邁進すべき目標を持つためだけに、言ってみれば、その目標を追求することから得られる「満足感」のためだけに、自分で設定した作為的目標に向けた活動を示す。以下に、代償活動を特定するための経験則を示す。人が多くの時間とエネルギーを目標Xを追求するために使っている場合、次のように自問せよ。その人が、自分の生物学的欲求を満足させるために多くの時間とエネルギーを使わねばならず、その努力のために多様で興味深いやり方で自分の身体的・精神的能力を行使しなければならないとするならば、自分が目標Xを達成できないことについて大きな剥奪感を持つだろうか?答えが、持たない、であれば、その人の目標X追求は代償活動である。裕仁の海洋生物研究は、明らかに代償活動だった。明らかに、裕仁が生活必需品を手に入れるために興味深い非科学的課題に自分の時間を費やさねばならないとしても、自分が海洋動物の解剖学とライフサイクルについて全く知らないからといって剥奪感を持つことはないからだ。一方、セックスと愛(例えば)は代償活動ではない。大部分の人々は、その他の点では自分の生活に満足していても、異性との関係を一度も持たずに生涯暮らすと剥奪感を持つからである。(ただし、本当に必要とする以上の過剰な程のセックスの追求は、代償活動になりえる。)
四〇.現代産業社会では、自分の身体的欲求を満たすために最小限の努力しか必要ではない。ちょっとした技術的技能を獲得する訓練プログラムを受け、時間通りに仕事に行き、仕事に就くために必要なささやかな努力をすれば充分なのである。必要なのは、ちょっとした量の知性だけであり、何よりも単純な「服従」だけなのである。こうしたことを行えば、社会は揺り籠から墓場までその人の面倒を見てくれる。(確かに、身体的必要を当たり前だとはみなしえない底辺層もいるが、ここでは社会の主流について述べている。)したがって、現代社会が代償活動に満ちているのは当然なのだ。こうした代償活動には、科学研究・運動競技の業績・人道的活動・芸術と文学の創作・出世の階段の上昇・付加的な身体的満足を与えなくなるほどまでの金銭と物の獲得・活動家にとって個人的に重要ではない問題を扱う時の社会活動(非白人マイノリティの権利のために活動する白人活動家の場合のように)、が含まれる。これらはいつも純然たる代償活動だというわけではない。多くの人々にとって、追求すべき目標を持つ欲求とは別の欲求で部分的に動機づけられているかもしれないからである。科学研究は名声を求めた動因に部分的に動機づけられているかもしれない。芸術創作は感情表現欲求に、戦闘的社会活動は敵意に動機づけられているかもしれない。しかし、それらを追求する人々の大部分にとって、こうした活動は主として代償活動なのである。例えば、科学者の大多数は、たぶん、自分の研究から得られる「満足感」が自分が得るお金や名声よりも大切だ、ということに同意するだろう。
四一.多くの--大部分ではないにせよ--人々にとって、代償活動は真の目標(パワープロセスへの欲求が既に満たされている場合であっても、人々が獲得したいと思う目標)の追求よりも満足いかない。このことを示している一つが、多くの、もしくは、大部分の場合で、代償活動に深くかかわっている人々は一度も満足したことがなく、一度も安息したことがない、という事実である。だから、お金を稼いでいる人は常にもっと多くの富を得ようと奮闘する。科学者は一つの問題を解決するや否や、次の問題へと移る。長距離ランナーは、自分を常にさらに先へ、さらに早く走るようにさせる。代償活動を追求する人々の多くは、自分の生物学的欲求を満足させる「平凡な」課題からよりも、こうした活動からはるかに多くの達成感を得ている、と述べるだろう。しかし、現代社会において、生物学的欲求を満足させるために必要な努力は、些末なことになっている。もっと重要なことだが、現代社会において、人々は、自分の生物学的欲求を「自律的に」満足させてはおらず、途方もない社会機構の一部として機能することで満足させている。逆に、人々は、代償活動を追求することで多くの自律を手に入れていることが多いのである。
自律性
四二.パワープロセスの一部としての自律性は、全ての個人に必要だというわけではないだろう。だが、大部分の人は、自分の目標を目指して活動する際に多かれ少なかれ自律性を必要とする。その努力は自分自身の発意で開始されねばならず、自分が方向付け、自分の管理の下に置かれていなければならない。しかし、大部分の人々は一個人としてこの発意・方向付け・管理を行う必要はない。「小規模」集団の一員として行動するだけで充分な場合が多い。例えば、六人の人々が目標を論じ、その目標を達成するための上手い共同行動を行えば、自分たちのパワープロセスへの欲求が満たされる。しかし、自律的決定と発意の余地がない、上から言い渡された厳格な命令の下で活動をすると、パワープロセスへの欲求が満たされなくなる。集団的意思決定を行っているグループが非常に大きすぎて個々人の役割が不明瞭になっているならば、意思決定を集団で行う場合にも同じことが当てはまる。(原註五)
四三.自律性をほとんど必要としないように思える人がいるのも確かである。こうした人は、権力への動因が弱いか、自分が所属する強力な組織と自分自身を同一視することで満足しているかのどちらかである。さらに、純粋に肉体的な力の感覚で満足しているように見える何も考えていない動物的タイプの人もいる(自分の力の感覚を戦闘技能の発達で得ている有能な戦闘兵は、上官に対する盲目的服従でその戦闘技能を行使することに非常に満足している)。
四四.しかし、大部分の人々にとって、自尊心・自信・権力意識を獲得するのは、パワープロセス--目標を持ち、「自律的」努力を行い、その目標を達成する--を通じてである。このパワープロセスを経験する適切な機会を持たない場合、その結果は(個々人やパワープロセスが妨害されるやり方に依存するが)退屈・堕落・低い自尊心・劣等感・敗北主義・抑鬱・不安・罪悪感・フラストレーション・敵意・配偶者や子供の虐待・飽くことを知らない享楽主義・異常な性行動・睡眠障害・摂食障害などである。(原註六)
社会的諸問題の源泉四五.先述の兆候はいずれも、いかなる社会においても出現しうるが、現代の産業社会では、莫大な規模で存在している。今日の世界が狂乱状態になっているようだと述べたのは我々が初めてではない。この種のことは人間社会にとって普通ではない。原始人がストレスとフラストレーションにそれほど悩まされておらず、現代人よりもその生活様式に満足していたと信じるに足る理由が存在する。確かに、原始社会で全てが愛らしく輝いてはいなかった。オーストラリアのアボリジニの間では女性の虐待は普通にあり、性転換がきわめて普通だった米国インディアン部族もあった。しかし、「一般的に言って」、前述の段落で我々が記載したような諸問題は、現代社会よりも原始民族の間では、確かに、はるかに少なかったようである。
四六.我々は、現代社会の社会的・心理的諸問題の原因を次のように考えている。この社会は、人々に、人類が進化してきた諸条件とは全く異なる諸条件のもとで生きるように求め、初期の諸条件下で生きながら人類が発達させてきた行動パターンと競合するやり方で行動するよう求めているのだ。これまで書いてきたことから明らかなように、我々がパワープロセスを適切に経験する機会を失っていることを、現代社会が人々に課している異常な諸条件の中で最も重要だと考えている。しかし、それだけが全てではない。社会的諸問題の源泉としてのパワープロセス崩壊を扱う前に、他の源泉のいくつかについて論じてみよう。
四七.現代産業社会に存在する異常な諸条件の中には、過剰な人口過密・自然からの人間の孤立・過剰なほど急速な社会変化・拡大家族としての自然な小規模コミュニティや村落や部族の崩壊がある。
四八.人口過密がストレスと攻撃性を増加させることはよく知られている。今日存在する過密の程度、自然からの人間の孤立は、テクノロジーが進歩した結果である。全ての前産業社会は主として田舎だった。産業革命は都市の規模を大きく拡大し、そこに住む人口の割合を増大させ、現代農業テクノロジーは、それまで行ってきた以上に、はるかに過密した人口を地球が支えることができるようにした。(同時に、テクノロジーは、過密の結果を悪化させている。更なる破壊的力を人間の手にゆだねているからだ。例えば、様々な騒音生産機器がそうだ。動力芝刈り機・ラジオ・バイクなどである。こうした機器の使用が制限されなければ、平穏と静寂を求める人々は、騒音によってイライラしてしまう。その使用が制限されると、こうした機器を使っている人々は法律によってイライラしてしまう…。しかし、こうした機器が発明されていなかったなら、それらによって生み出されるいかなる葛藤もイライラも存在しなかったであろう。
四九.原始社会にとって、自然界(通常ゆっくりとしか変化しない)は安定した構造を提供し、それゆえに安心感をもたらしていた。現代世界では、自然を支配しているのは人間社会であり、その逆ではない。現代社会はテクノロジー変革のために非常に急速に変化している。つまり、安定した構造はないのである。
五〇.保守派はバカである。伝統的価値観の腐敗について文句を言いながらも、テクノロジーの進歩と経済成長を熱狂的に支援している。ある社会のテクノロジーと経済に急速で劇的な変化がもたらされれば、その社会の他の側面全ても急速に変化し、そうした急速な変化は必然的に伝統的価値観を崩壊させる、ということが全く思い浮かばないのだ。
五一.伝統的価値観の崩壊は、伝統的な小規模社会集団を一つに結び付けていた絆の崩壊をある程度まで暗示している。現代の諸条件が、個々人を、自分のコミュニティから離れて新しい場所へと移動するようにさせたり、そこへ移動しようという気にさせたりすることが多い、という事実によっても小規模社会集団の崩壊は促されている。それ以上に、テクノロジー社会は、効果的に機能しようとすれば、家族の絆と地元コミュニティを弱める「必要がある」。現代社会において、個人の忠誠心はまず第一にシステムに対してなければならず、小規模コミュニティに対しては二義的なものでしかない。もし、小規模コミュニティ内部の忠誠心がシステムに対するものよりも強ければ、こうしたコミュニティはシステムを犠牲にして自分たち自身の便宜を追求しようとするからである。
五二.官僚や企業の重役が、ある仕事に最も適任の人をその立場に任命せずに、自分のいとこ・友人・同宗信徒を任命したと仮定してみよう。その人は、自分の個人的忠誠心をシステムに対する忠誠心よりも優先させることができたのであり、これは「縁故主義」や「差別」であり、現代社会では恐ろしい罪なのである。システムに対する忠誠心に個人や地元地域の忠誠心を上手く従属させられなかった自称産業社会は、通常、非常に効率が悪いものである。(ラテンアメリカを見ればよい。)つまり、先進産業社会は、去勢され、飼いならされ、システムの道具へと仕立てられた小規模コミュニティだけを容認できるのである。(原註七)
五三.過密・急速な変化・コミュニティの崩壊は、社会諸問題の源泉だと広く認められてきたが、我々は、それだけで今日見られる諸問題の規模を説明するのに充分だとは考えていない。
五四.前産業都市の中には非常に規模が大きく過密しているものもあったが、その住民が現代人と同じように心理的諸問題に悩まされていたとは思われない。米国には、今もまだ人が少ない田舎の地域があるが、田舎ではそこまで深刻にはならないものの、都市部と同じ諸問題がそこに存在している。つまり、過密が決定的要因だとは思われないのだ。
五五.一九世紀に米国開拓者が増大する際、人口の移動が、少なくとも今日崩壊させているのと同じ規模で、拡大家族と小規模社会集団を崩壊させたと思われる。実際、多くの核家族は、数マイル内に隣人がいないような孤立の中で生活することを選んだ。だが、その結果として諸問題が生じるとは思わなかったであろう。
五六.さらに、米国開拓者社会の変化は急速で深刻だった。人は、丸太小屋で法と秩序の範囲外で生まれ育ち、野生動物の肉を主として食べていたのだろう。そして、老年になるまで、一つの定職で働き、効果的な法的処置を持つ秩序だったコミュニティで生活したと思われる。これは、現代人の生活に一般的に生じている変化よりももっと深刻な変化だったが、心理的諸問題を導いてはいなかったようである。実際、一九世紀の米国社会は、楽観主義的で自信ある調子を持っており、現代社会の調子とは全く異なっていたのだった。(原註八)
五七.我々の考えでは、この違いは、現代人が変化が自分に「押し付けられて」いるという感覚を持っている(大筋では正しい)一方で、一九世紀の開拓者たちは自分自身の選択によって自分たちで変化を作り出しているという感覚を持っていた(これも大筋では正しい)ということである。例えば、開拓者たちは自分達自身の選択した土地の一部に定住し、自分自身の努力でその土地を農場にした。こうした日々の中で、一つの行政区全体に数百人の住民しかいないということになりかねず、現代の行政区よりもはるかに孤立し、自律していた。だからこそ、開拓者農民は、新しく秩序だったコミュニティを創造する際に比較的小規模の集団の成員として参加したのだった。このコミュニティの創造が何か改善したのかどうか疑問視するのももっともだが、いずれにしても、パワープロセスを求める開拓者の欲求を満足させたのだった。
五八.現代産業社会に見られているような莫大な行動異常がなくとも、急速な変化が起こっていたり、密接なコミュニティの絆が失われていたりする社会について別な実例を示すこともできるだろう。我々が主張しているのは、現代社会における社会的・心理的諸問題の最も重要な原因は、人々が正常なやり方でパワープロセスを経験する機会が不足しているという事実にある、ということである。現代社会はパワープロセスがゆがめられている唯一の社会だ、などと述べているのではない。たぶん、全てではないにせよ、大部分の文明社会は多かれ少なかれパワープロセスを妨害しているだろう。しかし、現代産業社会では、この問題は特に深刻なものとなっている。左翼、少なくとも最近の(二〇世紀中盤~後半の)タイプの左翼は、ある程度まで、パワープロセスの喪失症状なのである。
現代社会におけるパワープロセスの崩壊五九.我々は、人間の欲動を三つのグループに分けている:(一)最小限の努力で満足できる欲動;(二)大きな努力を払って初めて満足できる欲動;(三)どのような努力をしようとも充分には満足できない欲動。パワープロセスは、第二グループの欲動を満足させるプロセスである。第三グループの欲動が多ければ多いほど、不満・怒り・最終的な敗北主義・抑鬱などが多くなる。
六〇.現代産業社会では、人間の自然な欲動は、第一グループと第三グループに押しやられていることが多く、第二グループは次第に人工的に創造された欲動となりつつある。
六一.原始社会では、肉体的必要は一般に第二グループに属している。獲得はできるものの、重大な努力を払わねばならなかったのである。しかし、現代社会は全ての人に肉体的必要を保証している(原註九)ことが多く、それを手に入れるためにはほんの最小限の努力と交換するだけでよい。したがって、肉体的欲求は第一グループに押しやられている。(仕事を手にするために必要な努力が「最小限」かどうかについては異論があろう。しかし、通常、低レベルや中レベルの仕事で必要とされる努力は、服従することだけである。座っているように、とか、立っているようにとか言われた場所に座っていたり立っていたりする。そして、行うように言われたやり方で行うよう言われたことを行う。まじめに努力する必要はなく、そのため、パワープロセスへの欲求は充分に機能しない。)
六二.セックス・愛・地位といった社会的欲求は、個々人の情況に応じて、現代社会で第二グループに残り続けていることが多い。(原註一〇)しかし、立場への特に強力な欲動を持っている人々を除き、社会的欲動を満足させるために必要な努力は、パワープロセスを求めた欲求を適切に満足させるほど充分ではない。
六三.従って、第二グループに属するある種の人工的欲求が創り出され、ひいてはパワープロセスへの欲求を満たす役割を果たしている。広告とマーケティング技術が開発され、自分達の祖父母がほしいと思わなかったり、夢に見ることさえなかったりした物品を多くの人々が欲しいと感じるようにさせている。こうした人工的欲求を満たすためには充分な金を稼ぐための大きな努力が必要になり、従って、第二グループに属することになる。(しかし、八〇段落~八二段落を参照。)現代人は、主として、広告とマーケティング産業が作り出した人工的欲求の追求を(原註一一)通じて、そして、代償活動を通じて、パワープロセスを求める欲求を満たさねばならないのである。
六四.多くの人々にとって、多分大多数にとって、こうした人工的パワープロセスは不充分なものであろう。二〇世紀後半の社会批評家の著作に繰り返し現れているテーマは、現代社会で多く人々に課せられている無目的の感覚である。(この無目的性は「無規範」とか「中産階級の空虚さ」といった別な名前で呼ばれることが多い。)我々は、いわゆる「自己同一性の危機」は実際には目的感の探究であり、適切な代償活動への献身の探究であることが多い、と考えている。実存主義は主として現代生活の無目的性に対する反応であると言えよう。(原註一二)現代社会に非常に蔓延していることは、「充足感」の探究である。だが、大多数の人々に対して、その主たる目標が充足である活動(つまり、代償活動)は、完全に満足いく充足感をもたらしはしない。言い換えれば、パワープロセスへの欲求を完全に満足させないのである。(四一段落を参照。)肉体的必要・セックス・愛・立場・復讐などのような何らかの外的目標を持つ活動を通じてのみ、この目標を十全に満足させることができるのである。
六五.それ以上に、金を稼ぐこと・出世の階段を上ること・その他の方法でシステムの一部として機能することを通じて、目標が追求される場合、大部分の人々は自分の目標を「自律的に」追求する立場にはいない。大部分の労働者は他者の従業員であり、六一段落で指摘したように、日々、行うように言われたやり方で行うよう言われたことを行うのに費やさねばならない。自分で事業を行っている人々の大部分でさえ、限定的な自律性しか持っていない。小規模ビジネスを行っている人々や小規模事業主の慢性的不満は、自分たち役割が過剰な政府規制に縛られている、というものである。こうした規制の中には疑いもなく不要なものもあるが、大部分は、政府の規制は現在の極度に複雑な社会にとって必須・不可避なのである。小規模ビジネスの多くは、今日、フランチャイズシステムで運営されている。数年前、「ウォールストリートジャーナル」で報告されていたのだが、フランチャイズを認めている企業の多くが創造性と発意を持つ人々を「排除」するために作られた人格テストをフランチャイズの申込者に受けさせている。創造性と発意を持つ人々は、フランチャイズシステムに素直に協力するほど充分従順ではない、というのがその理由である。これが、自律性を最も必要とする人々の多くを小規模ビジネスから締め出しているのである。
六六.今日、人々は、自分で何かを行うということにではなく、システムが自分の「ために」もしくは自分に「対して」何を行うのかということに基づいて生きている。そして、自力で行うことは、ますます、システムが築いたルートを通じて行われるようになっている。機会とは、システムが提供する機会である場合が多く、機会は規則に従って有効に使われねばならない。(原註一三)成功の機会をつかもうとするならば、専門家が処方した技術に従わねばならないのである。
六七.従って、パワープロセスは、真の目標の欠如と目標を追求する際の自律性の欠如によって現行社会で歪められている。しかし、これが歪められているのは、人間のこうした欲動が第三グループに属すためでもある。どれほど自分が努力しても適切に満足させることのできない欲動である。こうした欲動の一つが安全の必要性である。我々の生は他者が決めた決定に依存している。こうした決定に対して何の制御力もなく、それらを作っている人々を知らないことさえ多い。(「私たちは比較的少数の人々--たぶん五〇〇~一〇〇〇人--が重要な決定を行っている世界に住んでいる」ハーヴァード=ロー=スクールのフィリップ=B=ハイマン、一九九五年四月二一日号のニューヨーク=タイムズでアンソニー=ルイスが引用)我々の生は、原発の安全基準が適切に維持されているかどうかに、どれほどの農薬が食物に混入しているかに、空気がどれほど汚染されているかに、医師がどれほど熟練しているのか(無能なのか)に左右され、仕事を得るか失うかは政府の経済学者や大企業の重役が行う決定に左右される、といった具合である。大部分の人々は、非常に狭い範囲以上にこうした脅威に対して自分自身を守るような立場にはいない。従って、安全を個人が追及しても頓挫してしまい、無力感を導くのである。
六八.原始人は、その平均余命が短かったことで分かるように、身体的に現代人より頑健ではなかった、と反論されるかもしれない。現代人は苦しみが少なく、せいぜい人類にとって標準的な不安量程度であるが、心理的安心は肉体的安全とは厳密に一致することはない。安心だと「感じ」させるのは、客観的安全というよりも、自分で自分の身を守る能力に対する自信感なのだ。原始人は、獰猛な動物や飢餓に脅かされていたが、自衛のために戦うことができ、食物探索のために旅することができる。こうしたことを行ってもうまくいく確証はないが、自分を脅かす物事に対して決して無能ではない。一方、現代人は自分ではどうすることもできない多くの物事に脅かされている。原発事故・食べ物の発癌物質・環境汚染・戦争・自分の生活様式を破壊しかねない全国規模の社会経済現象。
六九.原始人が自分を脅かしている物事の幾つかに対して無力であるのは確かである。例えば、病気がそうだ。しかし、原始人は感情的にならずに病気の危険を受け入れることができる。それは、万物の本性の一部であり、何らかの非人間的な架空の悪魔のせいだとしない限り、誰のせいでもない。しかし、現代人に対する脅威は「人間が作った」ものである場合が多い。偶然の産物などではなく、自分が個人として影響を与えることのできない決定を行った他者が自分に「押し付けた」のだ。その結果、挫折・屈辱・怒りを感じるのである。
七〇.つまり、原始人は、概ね、自分の安全を自身の手に(個人としてだったり、「小規模」集団のメンバーとしてだったり)持っている一方、現代人の安全は、自分から余りにも隔たっていたり余りにも大規模すぎたりして自分が個人的に影響を与えることのできない人々や組織の手にあるのだ。従って、現代人の安全を求めた欲動は第一グループと第三グループに属しているのである。幾つかの領域(食物、住居など)では、自分の安全がほんの些細な努力で保証されるが、他の領域では安全を手に入れることが「できない」。(前述したことは現実情況を大きく単純化しているが、現代人の条件が原始人の条件とはどれほど異なっているのかを大雑把に一般的なやり方で示している。)
七一.人々は、多くの一時的欲動や衝動を持ち、それらが現代生活を必然的に満足いかないものにしており、だからこそ、そうした欲動や衝動は第三グループに属している。人は怒るかもしれないが、現代社会は喧嘩を認めることができない。多くの情況で、言語的攻撃を許すことさえしない。どこかに行ったときに、急ごうと思ったり、ゆっくり旅行しようという気分になったりするかもしれないが、一般的には交通の流れに従って動き、交通信号に従う以外に選択肢はない。異なるやり方で自分の仕事を行いたいと思っても、一般に、雇用主が作り上げた規則に従って働くことしかできないものである。他の多くの点についても同様であり、現代人は規則のネットワークに(明示的にか、暗示的にか)縛りつけられている。これが自分の衝動の多くを頓挫させ、パワープロセスを妨げているのである。こうした規則の大部分を破棄することができない。産業社会の機能にとって必要だからだ。
七二.現代社会は、ある面では、極度に悲観的である。システムの機能とは無関係な事柄について、我々は一般に自分が好きなことを行うことができる。自分の好きな宗教を信じることができる(システムに危険な行動を促さない限り)。自分の好きな人とベッドを共にすることができる(「安全な性行為」を実践する限り)。しかし、あらゆる「重要な」事柄について、システムは増々我々の行動を規制するようになってきている。
七三.行動を規制するのは明示的規則だけでなく、政府だけでもない。統制の行使は、間接的強制、心理的圧力や操作、政府以外の組織やシステム全体による場合が多い。最大規模の組織はある種のプロパガンダ(原註一四)を使い、大衆の態度や行動を操作する。プロパガンダは「コマーシャル」と広告だけではない。時として、プロパガンダを作る人々がプロパガンダとして意識的に意図してさえいない場合もある。例えば、娯楽番組の内容は強力なプロパガンダ形態である。間接的強制の実例としては、毎日仕事に行かねばならず、雇用主の命令に従わねばならない、と述べている法律はないことがあげられる。法的には、原始人のように荒野で生活しに行くことや独力で事業を行うことを妨げるものは何もない。しかし、実際には、荒野はほとんど残っておらず、経済には限られた数の小規模事業オーナーしか参入できる余地はない。だから、我々の大部分は誰か他の人の従業員としてしか生き残ることはできないのである。
七四.長寿、そして高齢になっても身体的活力と性的魅力を維持することに対する現代人の強迫観念は、パワープロセスという点での剥奪の結果として実現されていないことの症状だと思われる。「中年の危機」もこうした症状の一つである。だから、子供を持つことへの関心の欠如は、現代社会ではかなりありふれたことであるが、原始社会ではほとんど知られていなかったのである。
七五.原始社会では、生は一連の段階である。一つの段階の欲求と目的が満たされると、何ら特別な抵抗もなく次の段階へ進む。青年は、猟師となることでパワープロセスを経験する。スポーツや満足を得るための狩りではなく、食物として必要な肉を得るための狩りなのである。(若い女性の場合、このプロセスは、社会的権力に大きな強調が置かれており、もっと複雑である。ここでは女性については論じない。)この段階を上手く通過すると、青年は何の抵抗もなく家族を養う責任に取り掛かる。(逆に、現代人の中には、ある種の「満足」を求めるのに余りにも急がないため、子供を持つことを無期限に延期する人々がいる。こうした人たちに必要な満足はパワープロセス--人工的な代償活動の目標ではなく、現実の目標を伴う--の適切な経験だと我々は考える。)再び、子供をうまく育てると、身体的必要物を子供達に提供することでパワープロセスを経験し、この原始人は自分の仕事が終わったと感じ、老年(それほどまで長生きした場合)と死を受け入れる準備をする。一方、多くの現代人は死の見込みに煩わされている。これは、現代人が自分の身体的条件・外見・健康を維持しようと費やしている努力の量に示されている。これは、自分の身体的力を何かに使うこともなく、真剣に自分の肉体を使ってパワープロセスを経験することもなかったという事実から生まれる挫折のためだと我々は主張する。年齢による低下を恐れているのは、実際的目的のために自分の肉体を日常的に使っている原始人ではなく、車から家まで歩く以上に肉体を一度も実際に使っていない現代人なのだ。自己の生の終わりを最も良く受け入れるのは、パワープロセスを求める欲求が生きている内に満たされる人なのである。
七六.このセクションの主張に対して、「社会は人々にパワープロセスを経験する機会を与える方法を見つけ出さねばならない」と述べる人もいよう。こうした人々について言えば、機会の価値は、社会が与えてくれるというまさにその事実によって破壊されるのだ。こうした人々に必要なのは、自分自身の機会を見つけたり、作り出したりすることである。システムが機会を「与える」限り、なおも束縛されているのである。自律性を手に入れるためには、束縛から解放されねばならないのだ。
適応している人々の方法七七.産業-テクノロジー社会にいる全ての人が心理的諸問題を被っているわけではない。現状の社会に非常に満足していると公言する人さえいる。ここでは、現代社会に対する人々の反応が非常に大きく異なっている理由の幾つかを論じる。
七八.まず第一に、権力への欲動の強度には確実に個人差がある。権力への欲動が弱い人は、パワープロセスを経験する必要が比較的少ない、もしくは、少なくともパワープロセスにおける自律性の欲求が比較的少ない可能性がある。こうした人々は、従順なタイプで、南北戦争以前の米国南部で「プランテーション黒ん坊」として幸せだったタイプである。(南北戦争以前の米国南部の「プランテーション黒ん坊」を嘲笑っているわけではない。彼らの名誉のために言うが、奴隷の大部分はその奴隷状態に満足しては「いなかった」。我々が嘲笑っているのは、奴隷状態に満足「している」人々である。)
七九.パワープロセスの欲求を満たすことを追求する上で、何らかの例外的な欲動を持っている人々もいるだろう。例えば、社会的地位に対する非常に強い欲動を持つ人々は、自分の全人生を出世の階段を上ることに費やし、出世ゲームに飽くことは一度もないだろう。
八〇.広告とマーケティング技術からの影響の受けやすさは人によって異なる。非常に影響を受けやすいため、多くの金を儲けても、マーケティング産業が目の前にちらつかせるピカピカの新しい玩具を常に熱望して満足できない人もいる。そのために、収入が多くても、常に金銭的に追い詰められていると感じ、その熱望は満たされないのである。
八一.広告とマーケティング技術にそれほど影響を受けない人々もいる。こうした人は、金に興味がない。物品の獲得がその人のパワープロセスの欲求を満たすことはない。
八二.広告とマーケティング技術に中程度の影響を受ける人々は、物品とサービスに対する熱望を満たすための充分な金を得ることができる。ただ、それは多大な努力を払うことになる(超過勤務・仕事のかけもち・昇進に向けた活動等)。従って、物品の獲得はパワープロセスの欲求を満たす。しかし、その欲求が十全に満足させられるとは限らない。パワープロセスの自律性が不充分(その仕事は命令に従うだけかもしれない)で、その欲動の中で満たされないものがあるかもしれない(例えば、安心や攻撃)。(我々は八〇段落~八二段落で過剰単純化という罪を犯している。物品獲得願望は完全に広告とマーケティング産業の創造物だと仮定しているからだ。もちろん、ここまで単純ではない。)
八三.自分を強力な組織や大衆運動と同一視することで、権力への欲求を部分的に満足させている人々もいる。目標や権力を持っていない個人は、運動や組織に参加し、その目標を自分のものとして採用し、その目標に向けて活動する。目標のいくつかを達成すると、その人は、自分の努力が目標達成に微々たる役割しか果たしていないのに、あたかも自分がパワープロセスを経験したかのように感じるのである(自分と運動や組織との同一視によって)。この現象を搾取したのがファシスト・ナチス・共産主義者である。現行社会も、それほど露骨ではないにしても、これを利用している。マヌエル=ノリエガは米国をイラつかせた(目標:ノリエガを処罰すること)。米国はパナマに侵攻し(努力)、ノリエガを処罰した(目標達成)。米国はパワープロセスを経験し、多くの米国人は自分を米国と同一視しているがゆえに、擬似的にパワープロセスを経験した。だからこそ、多くの大衆がパナマ侵攻を承認したのだ。人々に権力の感覚を与えたのである。(原註一五)同じ現象が、軍・企業・政治政党・人道主義組織・宗教運動・イデオロギー運動に見られる。しかし、大多数の人々にとって、大規模組織や大衆運動との同一視が権力への欲求を完全に満たすことはない。
八四.人々がパワープロセスに対する欲求を満足させるもう一つのやり方は、代償活動を通じてである。三八~四〇段落で説明したように、代償活動とは、人工的目標に向けた活動である。個人は、その目標それ自体を達成しなければならないからではなく、その目標を追求することから得られる「満足感」のためにその活動を追求する。例えば、すごい筋肉を作ること・穴に小さなボールを打ち入れること・切手の完全なシリーズを手に入れること、これらを行う実際的な動機など全くない。しかし、現行社会の多くの人々はボディビル・ゴルフ・切手収集に情熱をもって献身する。他者よりも「他人志向」な人々もいる。こうした人々は、周囲が重要だと扱っているからとか、社会が重要だと見なしているからといった理由だけで、ある代償活動を重要だとすぐさま見なしてしまうだろう。だから、スポーツ・ブリッジ・チェス・難解な学問研究といった本質的に些細な活動に非常にまじめに取り組む人がいるのである。一方、もっと明敏な人々はこうしたことをそれ自体で代償活動にすぎないと見なし、その結果、それらを重要視せず、そのようなやり方でパワープロセスの欲求を満足させようとはしない。多くの場合、個人が生計を立てる方法が代償活動にもなっていることだけは依然として注目されていない。活動を行う動機の一部が、身体的必要・(一部の人には)社会的地位・広告が欲しがらせた贅沢品の入手である以上、「純粋な」代償活動ではない。しかし、多くの人々は、金であれ地位であれ必要な何かを手に入れるために必要以上の努力を自分の仕事に注ぎ込んでいる。この余分な努力が代償活動となっているのである。この余分な努力は、それに伴う感情的投資と一緒になって、システムの継続的発展と完成に向けて、個人の自由に対して否定的な結果を伴いながら、作用する最も潜在的な力の一つなのである(一三一段落を参照)。特に、最も創造的な科学者とエンジニアにとって、仕事はその大部分が代償活動となることが多い。この点は非常に重要であり、独立した議論に値するため、ページを割いて論じることとなろう(八七段落から九二段落)。
八五.このセクションで、現代社会の多くの人々が、程度の差こそあれ、どのようにして自分のパワープロセスへの欲求を実際に満たしているのかを解説してきた。しかし、大多数の人々にとって、パワープロセスへの欲求が十全に満たされることはないと我々は考える。まず第一に、地位への貪欲な欲求を持つ人々や、代償活動にしっかりと「虜にされた」人々や、運動や組織と自分を充分強く同一視することで自分のパワーへの欲求を満たしている人々は、例外的な人格である。それ以外の人々が十全に満足することはない(四一段落と六四段落を参照)。第二に、明確な規則や社会化を通じてシステムが過剰な統制を押し付けることで、特定の目標を達成できず、非常に多くの衝動を制限する必要があるために、自律性の欠如と欲求不満がもたらされる。
八六.だが、産業テクノロジー社会にいる大部分の人々が十全に満足していた場合であっても、我々(フリーダムクラブ)は、なおもこの社会形態に反対するだろう。なぜなら、(他にも理由はあるがとりわけ)この社会がパワープロセスへの欲求を満たすことを、本当の目標の追求を通じてではなく、代償活動・組織との同一視を通じたものに貶めているからである。
科学者の動機
八七.科学とテクノロジーは代償活動の最重要例を提供してくれる。科学者の中には、自分たちが「好奇心」に動機づけられていると主張する者がいる。この概念は全くバカげている。大部分の科学者は高度に専門化された問題に取り組んでおり、こうした問題は通常の好奇心の対象ではない。例えば、天文学者・数学者・昆虫学者は、イソプロピルトリメチルメタンの特性に関して好奇心を持っているのだろうか?もちろん持っていない。化学者だけがこのようなものに興味を持つのであって、化学者が興味を持つのは、化学が自分の代償活動だからであるに過ぎない。化学者は新種の甲虫の適切な分類に興味を持つだろうか?持たない。この問題は昆虫学者だけが関心を持つのであり、昆虫学者が関心を持つ理由は、昆虫学が自分の代償活動だからにすぎないのだ。もし、化学者と昆虫学者が身体的必要を手に入れるようと真剣に努力しなければならないとすれば、そして、その努力は興味深いやり方で(ただ、科学とは無関係の研究で)自分の能力を行使することになるとすれば、彼等はイソプロピルトリメチルメタンや甲虫の分類など全く気にかけないはずである。大学院教育を受ける資金がないため、この化学者が化学者ではなく保険ブローカーになっていたと仮定してみよう。この場合、彼は保険の問題に非常に関心を持ち、イソプロピルトリメチルメタンについては全く気にしなくなっただろう。いずれにせよ、科学者が自分の研究に投入している時間と努力が、単に好奇心を満足させるためだけのものだというのは普通ではない。科学者の動機を「好奇心」で説明するのは説得力がないのだ。
八八.「人間の利益」という説明も全くうまくない。科学研究の中には人類の福祉に何の関係もないと思われるものがある--例えば、考古学や比較言語学の大部分がそうだ。他の分野の科学では、明らかに危険な可能性を示しているものもある。しかし、こうした分野の科学者は、ワクチンを開発したり大気汚染を研究したりしている研究者と同じぐらい、自分の活動に熱狂的である。エドワード=テラー博士の例を考えてみよう。彼は、原子力発電所を普及させることに明らかに感情移入していた。この感情移入は、人間に利益をもたらすという願望から生じていたのだろうか?そうだとすれば、何故テラー博士は他の「人道主義的」大義にも感情的にならなかったのだろうか?彼がそれほどまで人道主義者だったとするなら、何故彼は原子爆弾を開発する手助けをしたのだろうか?その他多くの科学的業績同様、原子力発電所が実際に人間に利益をもたらすかどうかについては非常に多くの疑問の余地が残されている。安い電力は廃棄物の蓄積と事故の危険よりも大事なのだろうか?テラー博士は問題の一面しか見ていない。明らかに、原子力に対する彼の感情移入は「人間に利益をもたらす」願望からではなく、自分の研究とそれが実際に利用されているのを見ることから得た個人的満足から生じていたのだ。
八九.同じことが科学者一般にも当てはまる。稀に例外があるかもしれないが、彼らの動機は好奇心でも、人間に利益をもたらそうという願望でもなく、パワープロセスを経験する欲求なのである。目標(解決すべき科学的問題)を持ち、努力(研究)をし、目標を達成(問題を解決)する。科学は代償活動である。科学者は自分の仕事それ自体から得られる達成感のために仕事をしているからだ。
九〇.もちろん、これほど単純ではない。多くの科学者にとって他の動機も確かに動機としての役割を果たしている。例えば、金や地位がそうだ。地位に対して貪欲な欲動を持つタイプ(七九段落を参照)の科学者もいるかもしれず、それが研究を行う動機の多くをもたらしているかもしれない。科学者の大部分が、一般民衆の大多数と同様に、広告とマーケティング技術に多かれ少なかれ影響を受け、商品とサービスへの熱望を満足させるために金を必要としていることは疑いもない。つまり、科学は「純粋な」代償活動ではないものの、大部分が代償活動なのである。
九一.また、科学とテクノロジーは、大衆権力運動を構成し、多くの科学者はこの大衆運動との同一視を通じて権力への欲求を満足させている(八三段落を参照)。
九二.つまり、科学は人類の本物の福祉などの基準とは無関係に、科学者の心理的欲求、そして研究に資金提供している政府官僚と企業重役の心理的欲求にのみ盲従しているのである。
自由の性質
九三.我々が主張しようとしているのは、産業-テクノロジー社会が人間の自由の領域を徐々に狭めていくことを防止するといったようなやり方でこの社会を改良することはできない、ということである。しかし、「自由」は多くのやり方で解釈できるため、まず第一に我々が関わっているのがどのような自由なのかをここで明確にしなければならない。
九四.「自由」ということで我々が意味しているのは、代償活動の人工的目標ではない本物の目標を持ち、誰からの(特に大規模組織からの)邪魔も・操作も・監督もなく、パワープロセスを経験する機会のことである。自由とは、自己の存在の生と死という問題--衣食住と周辺環境にあるかもしれない様々な危険に対する防衛--について(個人や「小規模」集団のいずれかとして)制御力を持っていることである。自由とは力を持つことである。他者を管理する力ではなく、自分自身の生にかかわる状況を管理する力である。その力がどれほど慈悲深く寛大で寛容に行使されようとも、他者(特に大規模組織)がその人に及ぼす力を持っているならば、その人は自由ではない。自由を単なる容認と混同しないことが大切なのだ(七二段落を参照)。
九五.憲法で保障された権利が一定数あるのだから私たちは自由社会に生きている、と言われる。しかし、こうした権利はそう思われているほどには重要ではない。社会にどの程度個人的自由があるのかは、法律や政府形態よりも、社会の経済・テクノロジー構造によって決められる(原註一六)。ニューイングランド地方のインディアン民族の大部分は君主制だったし、イタリアのルネッサンス期の都市の多くは独裁者が統制していた。しかし、こうした社会について本を読むと現行社会よりも遥かに多くの個人的自由が許されていたという印象を受ける。この理由の一部は、支配者の意思を押し付ける効率的メカニズムがなかったからだ。近代的で充分組織された警察も、速度の速い長距離コミュニケーションも、監視カメラも、平均的市民の生活に関する情報の調査書類もなかった。従って、統制からうまく逃げるのは比較的容易だったのだ。
九六.憲法で保障された権利に関して、例えば、言論の自由を考えてみよう。無論、我々はこの権利を打倒せよと言っているのではない。この権利は、政治権力の集中を制限し、政治権力を持つ人々の不正行為を公に明らかにすることで、そうした人々を正しい状態に保つ非常に重要な道具である。しかし、言論の自由は個人としての平均的市民にはほとんど役に立たない。マスメディアは、大抵、システムに統合されている大規模組織の統制下にある。金を少ししか持っていない人でも印刷物を手にしたり、それをインターネットやそれに類するやり方で流通させたりすることができる。しかし、その人が伝えたいことは、メディアが生み出す莫大な量の資料に圧倒され、現実に何の効果ももたらさないだろう。従って、大部分の個人と小規模集団が言葉で社会に感銘を与えることはほとんど不可能なのだ。例えば、我々(フリーダムクラブ)について考えてみよう。我々が暴力的なことを行わず、出版社に文書を提示しただけだったなら、その文書が受け入れられることなどないだろう。その文書が受け入れられ、出版されたとしても、多くの読者を引き付けることなどないだろう。地道なエッセイを読むよりも、メディアが生み出すエンターテイメントを眺めているほうがもっと楽しいからだ。こうした文書が多くの読者を獲得した場合であっても、読者の大部分はすぐに自分が読んだことをすぐに忘れてしまう。その精神はメディアがばらまく大量の資料で溢れかえっているからである。我々のメッセージが人々の目にふれる際に永続的感銘を与える可能性を作るべく、我々は殺人を犯さねばならなかったのだ。
九七.憲法上の権利はある程度までは有効だが、自由のブルジョア概念と呼びうること程も保証する働きをしてはいない。このブルジョア概念に従えば、「自由な」人は本質的に社会機構の一要素であり、規定され区切られた様々な自由の集合を持っているだけである。つまり、個人の要求よりも社会機構の要求を果たすよう作られた自由なのである。従って、ブルジョアの「自由な」人は経済的自由を持つ。何故なら、このことが成長と進歩を促すからだ。この人は言論の自由を持つ。何故なら、人々の批判が政治指導者の不正行為を制限するからだ。この人は公正な裁判を受ける権利を持つ。何故なら、権力者の気まぐれで投獄することはシステムにとって不都合になるからである。これは、疑いもなく、シモン=ボリバルの態度だった。彼にとって、人々が自由に値するのは、人々が自由を使って進歩(ブルジョアが考える進歩)を促す時だけだった。ブルジョア思想家の中には、集団的目的に対する単なる手段としての自由という同様の見解を持っている者もいる。チェスター=C=タン著「二〇世紀の中国政治思想」の二〇二ページにおいて、中国国民党指導者の胡漢民の哲学が説明されている。「個人が権利を与えられるのは、その人が社会の一員であり、その地域生活がそうした権利を求めているからである。地域という言葉で、胡が指していたのはその国の社会全体だった。」そして、二五九ページでタンは、張嘉森(中国国家社会党主席)によれば、自由は国家の利益と全体としての人民の利益のために使われねばならなかった、と述べている。しかし、誰か他の人が規定した時だけに自由を行使できるとするならば、どのような種類の自由を手にしているというのだろうか?我々フリーダムクラブの自由概念は、ボリバル・胡・張などブルジョア理論家の概念とは異なる。こうした理論家の問題は、彼らが社会理論の開発と適用とを自分の代償活動にしていたことにある。その結果、理論は理論家の欲求を満たすように作られるのであって、理論を押し付けられる社会に運悪く住むことになりかねない人々の欲求ではない。
九八.このセクションでもう一点だけ指摘しておこう。人が充分自由を持っていると「言っている」からというだけで、その人が自由だと仮定してはならない。自由の一部は人が意識していない心理的統制によって制限されている。それ以上に、自由を構成していることに関して多くの人々が持っている理念は、人々の真の欲求ではなく、社会的慣習に支配されている。例えば、過剰社会化したタイプの左翼の多くは、自分達を含め大部分の人々は、過剰に社会化しているのではなく、余り社会化していない、と述べることが多いようだ。だが、過剰社会化した左翼は、自分の高いレベルの社会化と引き換えに重大な心理的犠牲を払っているのである。
歴史の諸原則の一部
九九.歴史を、二つの要素の合計だとみなして考えてみよう。二つの要素とは、認識できるパターンには従わない予測不可能な出来事からなる不規則な要素と、長期的な歴史傾向からなる規則的要素である。ここではこの長期的傾向を扱うことにする。
一〇〇.第一原則。「小さな」変化が生じ、長期的歴史傾向に影響を与えるとしても、この変化の効果はほとんど常に一時的なものとなろう。この傾向はすぐにその当初の状態へと復帰するだろう。(例えば、社会における政治的腐敗を一掃すべく企図された改革運動が短期的効果以上のものを持つことはほとんどない。遅かれ早かれ改革派は気を緩め、腐敗がいつの間にか元に戻ってしまう。ある社会の政治腐敗は一定レベルを保ったままか、社会進化と共に非常にゆっくりとしか変化しないかのどちらかである場合が多い。通常、政治浄化が永続するのは、幅広い社会変革を伴う場合だけである。社会における「小さな」変化では充分ではない。)長期的歴史傾向における小さな変化が永続的なもののように見える場合、それは、この傾向がすでに動き出している方向にこの変化が作用しているからに過ぎず、従って、この傾向は変化するのではなく、一歩先に押し出されているに過ぎない。
一〇一.第一原則はほとんどトートロジーである。ある傾向が小さな変化が起こるたびに影響されている場合、この傾向は明確な方向に従うというよりも取り留めもなくランダムに動いていることになろう。言い換えれば、これは長期的な傾向ではないということになるのである。
一〇二.第二原則。長期的歴史傾向を永続的に変化させるだけ充分大きな変化が生じた場合、この変化は社会全体を変化させる。言い換えれば、社会はすべての部分が相互に関係しているシステムであり、他の部分全てに変化をもたらさずに重要な部分だけを永続的に変化させることなどできないのである。
一〇三.第三原則。長期的傾向を永続的に変化させるだけ充分大きな変化が生じた場合、社会全体に対する結果を前もって予測することはできない。(他の様々な社会がこれと同じ変化を経験し、全てが同じ結果を経験した場合を除く。この場合、他の社会が同じ変化を経験すると同様の結果を経験する見込みが高いという経験的根拠に基づいて予測できる。)
一〇四.第四原則。新しい社会を机上で設計することはできない。つまり、前もって新しい社会形態を計画し、それを設定し、計画通りに機能すると期待するなど不可能なのである。
一〇五.第三原則と第四原則は人間社会の複雑さからもたらされる。人間行動の変化は社会の経済と物理環境に影響を受ける。経済は環境に影響し、環境は経済に影響する。そして、経済と環境の変化は複雑で予測不可能なやり方で人間行動に影響を与える。因果の絡まりは、あまりにも複雑すぎて、解きほぐすことも理解することもできないのである。
一〇六.第五原則。人々は、自分の社会の形態を意識的にも理性的にも選択してはいない。社会は、社会進化プロセスを通じて発展し、このプロセスは理性的人間の制御下にはない。
一〇七.第五原則は他の四原則の帰結である。
一〇八.解説しよう。第一原則により、一般的に言って、社会改革は、どのみち社会が発展する方向に作用する(そのことで何があろうとも生じるはずの変化を単に加速させるだけにすぎない)か、単なる一時的効果しか持たず、そのために社会はすぐに昔ながらの慣例に戻ってしまうかのどちらかになる。社会の重要な側面が発展する方向性に永続的変化を引き起こすために、改革は不充分であり、革命が必要である。(革命は必ずしも武装蜂起や政府の転覆を必要とはしない。)第二原則により、革命は社会の一側面だけを変えるのではなく、社会全体を変える。そして、第三原則により、革命家が期待したり望んだりしたことのない様々な変化が生じる。第四原則により、革命家や夢想家が新社会を設定しても、計画通りになることはない。
一〇九.米国革命も反例を示してはいない。米国「革命」は現代的意味での革命ではなく、むしろ、はるかに深遠な政治改革をその後にもたらした独立戦争だった。建国の父達は、米国社会の発展の方向性を変えなかったし、そうしようともしなかった。彼等は、米国社会の発展を英国支配が持つ遅延効果から解放しただけだった。彼等の政治改革は基本的傾向を変えたのではなく、米国の政治文化をその自然な発展方向に沿って推し進めただけだった。米国社会は英国社会の派生物だったが、英国社会は以前から代議制民主主義の方向に動いていた。そして、米国人は、独立戦争以前に植民地議会において、かなりの程度まで代議制民主主義を実践していた。米国憲法が確立した政治システムは、英国のシステムと植民地議会を手本にしていた。確かに、大きな修正はあった。建国の父達が非常に重要なステップを取ったことは間違いない。しかし、これは、英語圏の世界が既に進んでいた道に沿ったステップだった。その証拠に、英国と、英国出身の人々が人口の大半を占める植民地全てとは、結果として、米国と本質的に同様の代議制民主主義システムになったのである。建国の父達が怖気づいて独立宣言に調印しなかったとしても、現在の生活が大きく異なることはなかっただろう。もう少し英国と親密なつながりを持ち、連邦議会と大統領ではなく、国会と首相がいたかもしれない。だが、大した問題ではない。このように、米国革命は、我々の諸原則に対する反例ではなく、好例を示しているのである。
一一〇.それでもなお、人々はこの諸原則を適用する際に、常識を使わねばならない。これらの諸原則は不明確な言葉で表現されており、解釈の余地を残し、諸原則に対する例外を可能にしている。従って、我々は、これらの諸原則を不可侵の法則としてではなく、経験則もしくは思考の指針として提示している。これは、未来に関する素朴な理念に対する部分的な対抗手段になり得る。これらの諸原則は常に心にとめておかねばならず、諸原則と対立する結論に達するときには常に、自分の思考を注意深く再検討し、その結論を保持するのは、それを実行する確固たる理由がある時だけにしなければならない。
産業-テクノロジー社会を改革することはできない
一一一.ここまで述べた諸原則は、自由の領域を徐々に狭めるのを防ぐように産業システムを改革することがどれほど絶望的に難しいのかを示すために役立つ。少なくとも産業革命にまで遡ることができるのだが、テクノロジーは、個人の自由と地元地域の自律を大きく犠牲にしてシステムを強化する傾向を一貫して持っている。つまり、テクノロジーから自由を守るべく計画された変化はいかなるものであっても現代社会の発展における根本的傾向と矛盾することになるのだ。その結果、こうした変化は、一時的なもの--すぐに歴史の波にのまれてしまう--になるか、永続的なものになるほど充分大きかった場合には現代社会全体の性質を変えることになるかのどちらかとなろう。これは第一原則と第二原則による。さらに、社会は前もって予測できないようなやり方で変化する(第三原則)以上、そこには大きなリスクを伴うことになる。システムを重大に崩壊させると実感することで、自由を支持する永続的効果をもたらすほど充分大きな変化は始まらないかもしれない。従って、改革をしようといういかなる試みも、おっかなびっくり行われてしまい、効果がないものになるかもしれない。永続的効果をもたらすほど充分大きな変化が始まったとしても、その破壊的効果が明らかになると撤回されてしまうかもしれない。つまり、自由を支持する永続的変化をもたらすことができるのは、システム全体の徹底的で危険で予測不可能な変革を受け入れる用意のある人々だけなのである。言い換えれば、改革者ではなく、革命家だけなのだ。
一一二.テクノロジーがもたらすと思われている利益を犠牲にせずに自由を救出したいと切望している人々は、テクノロジーと自由を調和させる新社会という素朴な枠組みを示唆するだろう。こうした示唆をしている人々は、まず第一にそのような新社会を設定できる実践的手段を提起することがない。このことをさておいても、第四原則から次のことが示される。このような新社会を確立することができたとしても、それは崩壊してしまうか、期待とは全く異なったものをもたらすことになってしまうだろう。
一一三.従って、非常に一般的な根拠に基づいたとしても、自由と近代テクノロジーを調和させるような社会変革方法が見いだされるなど、ほとんどあり得ないように思われるのだ。次の数セクションで、自由とテクノロジーの進歩とが両立不可能だという結論に至る理由をさらに具体的にあげてみよう。
産業社会では自由の制限は避けられない
一一四.六五段落~六七段落、七〇段落~七三段落で説明したように、現代人は規則の網に捕らわれており、その運命は、自分とは遠く離れ、自分が影響を与えることのできない決定を行う人々の行動に左右されている。これは、偶然でも傲慢な官僚の気まぐれの結果でもない。テクノロジーが進歩した社会では必要なことであり、避けられないことなのだ。システムが機能するためには、人間行動を綿密に規制「しなければならない」。仕事場で、人々は言われたことを行わねばならず、さもなくば生産は混乱状態に陥ってしまう。官僚制は厳格な規則に沿って運営「されねばならない」。下級官僚に相当量の個人的裁量を許してしまうと、システムが混乱し、個々の官僚が自分の裁量を行使するやり方に違いがあることで不公平な管理を導くことになる。自由に対する制限を減らすことができるというのは正しいが、「一般的に言って」大規模組織による我々の生活の規制は、産業-テクノロジー社会の機能にとって必要なのである。その結果、平均的個人は無力感を持つ。ただ、形式的な規制は、次第に心理的手段(プロパガンダ(原註一四)、教育技術、「メンタルヘルス」、番組など)に置き換えられ、システムが求めていることを自分が行いたいと思わせられているかもしれない。
一一五.システムは、自然な人間行動パターンから徐々に離れていくように人々に行動させ「ねばならない」。例えば、システムには科学者・数学者・工学者が必要である。こうした人々がいなければシステムは機能できない。従って、大きな圧力を子供達にかけて、こうした分野で秀でるようにさせる。青年が自分の時間の大部分を机に向かって勉強に没頭することに費やすなど自然ではない。標準的な青年は、自分の時間を、現実世界との積極的な接触に費やしたいと思っている。原始民族の間では、子供達が行うよう教育されることは、人間の自然な衝動と合理的に調和していることが多い。たとえば、北米インディアンの間では、男の子は積極的な野外活動--男の子が好きな類のことである--で教育されていた。しかし、現代社会では、子供達は工業科目を勉強するように押し付けられ、ほとんどの子供は嫌々ながらそれを行っている。
一一六.システムが人間行動を修正すべく行使している継続的圧力のために、社会の要件に適応できない、もしくは適応しようとしない人々の数が徐々に増加している。福祉を食い物にする人々・若者のギャングメンバー・カルト信者・反政府反逆者・妨害工作を行う急進的環境保護主義者・落ちこぼれ・様々な反政府主義者などがそうだ。
一一七.テクノロジーが進歩した社会では、個人の運命は自分が個人的にどのような影響も与えることができない決定に左右され「ざるを得ない」。テクノロジー社会を小規模の自律的コミュニティに分割することは不可能である。生産が莫大な数の人々と機械の協力に依存しているからである。例えば、ある決定が百万人に影響するとすれば、影響を受ける個々人は、平均で、意思決定に百分の一の役割しか持たない。現実には、役人・企業の重役・専門技術者が決定を行っていることが多いが、民衆が投票で決定をしたとしても、投票者の数が多過ぎるため、一個人が大きな影響を与えることはできないことが普通である。(原註一七)従って、大部分の個人は、自分の生活に影響する主要な決定に多少とも影響を与えることなどできないのだ。テクノロジーが進歩した社会でこのことを矯正する方法などあり得ない。システムはプロパガンダを利用してこの問題を「解決」しようとする。つまり、自分達のために下される決定を人々が「求める」ようにするのである。だが、この「解決策」が完全に上手く人々を気楽にさせることができたとしても、これは屈辱的なことなのだ。
一一八.保守派等の人々は「地元地域の自律」を支持している。地元地域は確かに自律していたこともあった。しかし、地元地域が、公益事業・コンピュータネットワーク・高速道路システム・マスコミ・現代的医療保険システムといった大規模システムの網に捕えられ、それに左右されるようになるに従い、こうした自律は次第に不可能になってきている。また、ひとつの場所において適用されたテクノロジーがはるか遠くの別な場所にいる人々に影響することが多い、という事実も自律に反する作用である。例えば、小川の傍で殺虫剤や化学物質を使うことは数百マイル下流の上水道を汚染する可能性があり、温室効果は地球全体に影響を与えているのである。
一一九.このシステムが人間の欲求を満たすことはないし、満たすために存在することもできない。逆に、システムのニーズに合致するよう修正されねばならないのは人間行動である。政治イデオロギーや社会イデオロギーはテクノロジーシステムを主導しているように装うかもしれないが、そうしたイデオロギーとは何の関係もない。システムを主導しているのはイデオロギーではなく、技術的必要である以上、これはテクノロジーの責任なのだ。(原註一八)もちろん、システムは確かに人間の多くの欲求を満たしている。しかし、一般的に言って、システムがこのようにするのそうすることがシステムの利益になる限りにおいてなのだ。最優先されるのはシステムのニーズであって、人間の欲求ではない。例えば、システムが人々に食べ物を与えるのは、万人が飢えてしまえばシステムが機能できなくなるからである。人々の心理的欲求に「都合よく」対応できるときにはいつでも、システムはそのようにする。余りにも多くの人々が抑鬱状態になったり反抗的になったりすると、システムが機能できなくなるからである。しかし、システムは堅実かつ実際的な理由から、人々に自分の行動をシステムのニーズに合わせて変えるよう常に圧力を与えねばならない。多くの廃棄物が蓄積している?政府・メディア・教育制度・環境保護主義者、誰もが我々を膨大なリサイクルプロパガンダ漬けにする。技術系の人材が足りない?声をそろえて子供達に科学を勉強するよう強く勧める。青年に莫大な時間を費やして自分の大嫌いな科目を勉強させているのは、非人道的かどうかを問うために立ち止まる人はいない。熟練労働者が技術の進歩のために職を失い、「再訓練」を受けねばならないとき、このようなやり方でこうした労働者を振り回すことは屈辱的かどうかを問う人は誰もいない。誰もが技術的必要の前に屈服しなければならないということが常識となっており、それにはもっともな理由がある。人間の欲求が技術的必要よりも優先されると、経済問題・失業・物品不足、さらに悪いことが起こるだろう、というわけだ。現代社会の「メンタルヘルス」という概念は、個人がシステムのニーズに従って行動し、そのように行動してもストレスの兆候を示さない範囲によって主として定義されている。
一二〇.システムの中に目的という感覚と、自律性の余地を残そうという努力はジョークに他ならない。例えば、ある企業は個々の従業員にカタログの一セクションをまとめるのではなく、カタログ全体をまとめさせ、そのことで従業員に目的感と達成感を与えようとしている。従業員により多くの自律性を与えようとしている企業もあるが、通常、実際的な理由から非常に限られた範囲でしか行うことができない。そして、いずれにしても、従業員に最終目標にかかわる自律性は与えられない--その「自律的」努力は自分達が自分達自身で選んだ目標に向けてのものではなく、雇用主の目標、例えば企業の存続と成長に向けたものに他ならない。これとは逆の行動を従業員に許可する企業はいかなるものであれすぐに破産してしまうだろう。同様に社会主義システム内のいかなる事業においても、労働者は事業の目標に向けて努力するのであって、さもなくばこの事業はシステムの一部としての目的を果たさなくなるだろう。再度言うが、純粋に技術的理由から、産業社会において大部分の個人や小規模グループが多くの自律性を持つことは不可能なのだ。中小企業経営者でさえ非常に限られた自律性しか持っていない。政府規制の必要性は別としても、この経営者は経済システムに適合し、その要件を順守しなければならないという事実によって制限されている。例えば、誰かが新しいテクノロジーを開発すると、中小企業経営者は必要かどうかにかかわらず、競争力を保つためにそのテクノロジーを使わねばならないことが多いのである。
テクノロジーの「悪い」部分を「良い」部分から切り離すことはできない
一二一.現代テクノロジーはすべての部分が相互依存している統合システムであり、自由を支持するように産業社会を改革できないもう一つの理由がこれである。テクノロジーの「悪い」部分を取り除き、「良い」部分だけを残すことなどできない。例として、現代医療を取り上げてみよう。医学の進歩は化学・物理学・生物学・コンピュータ科学といった分野の進歩に依存している。先進的治療には高価なハイテク機器が必要であり、これを入手可能なのはテクノロジーが進歩した経済的に豊かな国だけである。明らかに、テクノロジーシステム全体、そしてそれに伴う全てのことがなければ、医学の大きな進歩はあり得ない。
一二二.医学の進歩が他のテクノロジーシステム抜きに継続できたとしても、それ自体である種の悪をもたらすだろう。例えば、糖尿病の治療法が発見されたと仮定してみよう。糖尿傾向を遺伝的に持つ人々は生き残り、他者と同じように生殖をする。糖尿病遺伝子に対する自然淘汰はなくなり、こうした遺伝子は人々の間に蔓延する。(これは既にある程度まで生じているかもしれない。糖尿病はインシュリンの使用によって、治癒しないまでも、管理できるようになっているからだ。)同じことが他の多くの疾患感受性にも生じるだろう。疾病感受性は人々の遺伝子劣化に影響される。唯一の解決策はある種の優生学プログラムや人類の包括的遺伝子操作だろうが、このことで未来の人間は自然の創造物でも偶然の創造物でも神の創造物でも(自分の宗教的・哲学的見解に依るが)なく、一つの工業製品となってしまうのだ。
一二三.大きな政府が「今」自分の人生に余りにも多く介入していると考えているなら、自分の子供の遺伝子構成を政府が管理し始めたら一体どうなるのか考えてみればよい。人間の遺伝子操作が導入されると必ずこうした管理が伴うことになる。管理されていない遺伝子操作の帰結は破滅的なものになるからだ。(原註一九)
一二四.こうした懸念に対するお決まりの反応は、「医療倫理」について語ることである。しかし、倫理規定は、医療の進歩という事実を前にすると、自由を保護する役目を果たさない。単に、問題をさらに悪くするだけであろう。遺伝子操作に適用される倫理規定は、実際のところ、遺伝子構成を管理する手段になる。誰か(多分、通常はアッパーミドルクラス)が、これこれこういった遺伝子操作の適用は「倫理的」であり、それ以外は「倫理的」ではないと決めることになるだろう。そのことで、事実上、その人の価値観を人々全体の遺伝子構成に押し付けることになる。倫理規制が完全に民主的なやり方で選ばれたとしても、大多数の人々が、遺伝子操作の「倫理的」適用について別な考えを持つマイノリティに自分達の価値観を押し付けることになる。真に自由を保護する唯一の倫理規制とは、人類の遺伝子操作を「全て」禁止する、というものになろう。間違いなく、テクノロジー社会ではこのような規制が採用されることはない。遺伝子操作に小さな役割しか与えないような規制が長く持ちこたえることなどあり得ない。バイオテクノロジーの莫大な力が示す誘惑は耐えがたいものだからであり、特に、大多数の人々は、バイオテクノロジーの応用の多くはどう見ても明らかに良い(身体的・精神的疾病を除去し、今日の世界でうまくやっていくために必要な能力を人々に与える)、と思うからである。必然的に、遺伝子操作は大規模に使用されるが、それは産業テクノロジーシステムのニーズと一致するやり方でしか使用されないのである。(原註二〇)
テクノロジーは、自由への熱望よりももっと強力な社会的勢力である
一二五.テクノロジーと自由との間で「永続的な」妥協を行うのは不可能である。テクノロジーは現在のところ自由よりももっと強力な社会勢力であり、「度重なる」妥協を通じて自由に常に侵入し続けているからだ。想像してみよう。二人の隣人がおり、それぞれが当初は同じ大きさの土地を所有している。ただし、一方が他方よりも強い。強い方がもう一方の土地の一部を要求する。弱い方が拒否する。強い方は「オーケー、妥協しよう。私が求めた分の半分だけでいい。」弱い方は、それに屈する以外に選択肢はない。その後しばらくして、強い隣人はまたもや土地の一部を求める。そして再度妥協する、といった具合である。弱い隣人に長期的な妥協を強いることで、強い方は最終的にすべての土地を手に入れるのである。これと同じことがテクノロジーと自由との間の闘争で行われているのだ。
一二六.テクノロジーが、自由への熱望よりももっと強力な社会的勢力である理由について説明しよう。
一二七.テクノロジーの進歩は、一見して自由を脅かさないように見えるが、後になると自由を非常に重大に脅かしていることが明らかになることが多い。例えば、原動機付きの移動手段について考えてみよう。それ以前の徒歩で移動していた人は自分が好きな場所に行くことができ、交通規則を順守せずとも自分のペースで移動でき、テクノロジーに支援されたシステムとは無関係だった。自動車が導入された時、自動車は人間の自由を増加させてくれるように見えた。徒歩で移動する人から自由を取り上げることはなく、自分が欲しくなければ自動車を手に入れる必要などなく、自動車を購入することを選んだ人は徒歩の人よりもはるかに早く移動することができた。しかし、原動機付き移動手段の導入は、すぐに、移動の自由を大きく制限するようなやり方で社会を変化させた。自動車の数が増えると、その使用方法を幅広く制限しなければならなくなった。車の中で、特に人口密集地域では、人は自分のペースで好きなところに行くことはできなくなり、自分の動きは交通量と様々な道路交通法に支配されている。様々な義務に縛りつけられる。資格要件・運転試験・免許の書き換え・保険・安全のために必要なメンテナンス・車購入代金の月々の分割払い。それ以上に、原動機付き移動手段の使用はもはや任意ではない。原動機付き移動手段の導入以来、都市の配置が変化し、大多数の人々は仕事・ショッピング・レクリエーションの場に徒歩で行ける所には住んでおらず、従って、移動手段として自動車に依存し「なければならない」。さもなくば、公共交通機関を使わねばならないが、この場合、車を運転する時よりも、自分自身の動きに対する制御力がさらに少ない。歩く人の自由すらも今や大きく制限されている。都市では、自動車交通のために主として作られた信号機が変わるのを待つために何度も立ち止まらねばならない。田舎では、自動車交通のために高速道路沿いを歩くのは危険で不愉快なものとなっている。(ここで原動機付き移動手段を使って例示した重要なポイントに注目してほしい。新しいテクノロジー品目が、個人が受け入れることのできる、つまり、選択したわけではない選択肢として導入されると、それは必ずしも選択肢として「あり続ける」わけではない。多くの場合、新しいテクノロジーは、人々が結局いつの間にかそれを使うよう「強いられ」るようなやり方で社会を変えるのだ。)
一二八.テクノロジーの進歩「全体」が常に自由の領域を狭める一方、個々の新しい技術的前進は、「それだけで検討すると」望ましいものであるように見える。電力・屋内トイレ・高速長距離通信、これらのどれ一つに対しても、また、その他の現代社会を作ってきた無数の技術的前進に対しても、反対することなどできまい。例えば、電話の導入に抵抗したとすれば、ばかげていただろう。電話は多くの便宜をもたらし、不便はもたらさなかった。しかし、五九段落~七六段落で説明したように、こうしたすべての技術的進歩が統合されることで、平均的人間の運命がもはや自分自身の手や、自分の隣人と友人の手にもなく、政治家・企業幹部・遠く離れた匿名の技術者と官僚といった個人としての自分には何の影響力もない人々の手に置かれる世界を作り出してきた。(原註二一)同じプロセスが未来も続くであろう。例えば、遺伝子操作を考えてみよう。遺伝性の病気を撲滅してくれる遺伝子技術の導入に抵抗する人は稀であろう。確かに、明らかな害もなく、多くの苦痛を阻んでくれる。しかし、数多くの遺伝子改善が統合すると、人類を、偶然(もしくは、宗教的信念に依るが、神か何か)の自由な創造物というよりも、工学的に操作された製品にしてしまうだろう。
一二九.テクノロジーがこれほどまでの強力な社会勢力であるもう一つの理由は、一つの社会の文脈内で、テクノロジーの進歩はたった一つの方向に進んでおり、逆転することは絶対ありえない、ということである。技術革新がいったん導入されると、人々は常にそれに依存するようになり、そのため、誰かがもっと進歩した革新で置き換えない限り、その技術抜きには再び行動することができなくなる。人々が、個人として新しいテクノロジー品目に依存するだけでなく、さらには、システム全体がその品目に依存するようになる。(例えば、コンピュータがなくなった場合に、今日のシステムに何が起こるかを想像してみればよい。)つまり、システムはたった一つの方向性にしか、より大きなテクノロジー化にしか、動けないのである。テクノロジーは、繰り返し、自由を一歩後退させるが、テクノロジーが一歩後退することはあり得ない--テクノロジーシステム全体の転覆を除いては。
一三〇.テクノロジーは非常に急速に進歩し、同時に様々な多くの点で(混雑・規則・大規模組織への個人の依存の増加・プロパガンダなどの心理的技術・遺伝子工学・監視装置とコンピュータを通じたプライバシー侵害など)自由を脅かす。自由に対する脅威の「一つ」を抑制するためには、長期的で困難な社会闘争を必要とするだろう。自由を保護したいと思っている人々は、非常に多くの新しい攻撃とそれらが開発される速度とに圧倒される。そのために、無関心になり、抵抗しなくなってしまう。こうした脅威一つ一つと個別に戦ったところで無益であろう。成功を期待できるのは、テクノロジーシステム全体と戦ったときだけである。しかし、これは革命であり、改革ではない。
一三一.技術者は(訓練が必要な専門的課題を遂行するすべての人々を描写するために、ここではこの言葉を広い意味で使う)、自分の仕事に余りにも専心しているために、その技術的仕事と自由との間に対立が生じた場合、ほとんど常に自分の技術的仕事を支持すると決めるものである。これは、科学者の場合には明白だが、他の分野でも見られている。教育者・人道主義グループ・環境保護組織は、自分達の賞賛に値する目標を達成する手助けとなるようにプロパガンダや心理的技術を躊躇せずに使っている。企業と政府機関は、有用だと見なすと、プライバシーなどお構いなしに個人に関する情報を躊躇することなく収集する。法の執行機関は、憲法で保障されている被疑者の権利について頻繁に不便を感じており、そして完全に無実の人の権利についても多くの場合同様に不便を感じている。こうした機関は、こうした権利を制限したり、出し抜いたりするために合法的に(時として非合法に)行えることなら何でも行う。こうした教育者の大部分・政府の役人・法務官は自由・プライバシー・憲法で保障された権利を信頼しているが、自分の仕事でこうした葛藤が生じると、仕事の方が重要だと感じることが通常なのである。
一三二.よく知られていることだが、一般に、人々は、罰や否定的結果を避けようとしている時よりも、報酬を得ようと奮闘している時の方がより良くより持続的に仕事を行う。科学者やその他の技術者は、主として、自分の仕事から得られる報酬に動機づけられている。しかし、テクノロジーによる自由の侵害に反対する人々は、否定的結果を避けるために活動しており、その結果、この悲観的な活動を継続的に充分行う人々はほとんどいない。改革者が目覚ましい勝利を確立し、技術的プロセスが自由を更に浸食することに対して、断固たる障害物を築いているように見えたとすれば、大部分の人々は、くつろいで、もっと快適な活動に自分の注目を転じていることだろう。しかし、科学者は実験室で忙しくするだろうし、テクノロジーは、進歩するにつれて、いかなる障害物があろうとも、個人に対するより多くの統制を行使し、システムに個々人が常にもっと依存するような方途を見つけるだろう。
一三三.法律であろうと制度であろうと慣習であろうと倫理規範であろうと、永続的テクノロジー対策をできる社会協定などあり得ない。歴史が示しているのは、全ての社会協定は一時的なものだ、ということである。それらは全て最終的に変化したり崩壊したりする。しかし、テクノロジーの進歩は一定の文明の文脈内で永続する。例えば、遺伝子操作を人間に適用しないようにする社会協定、もしくは、自由と尊厳に脅威を与えるようなやり方で遺伝子操作を適用できないようにする社会協定に到達できたと仮定してみよう。それでもなお、テクノロジーは待ちかまえ続けるだろう。遅かれ早かれ、この社会協定は崩壊する。現行社会の変化のスピードを考えれば、たぶん、早くに崩壊するだろう。そして、遺伝子操作は自由の領域を侵害し始めるだろう。この侵害に抵抗することはできない(テクノロジー文明それ自体の崩壊を除き)。社会協定を通じて永続的な何かを確立するという幻想は、現在の環境保護法の制定について生じていることで追い払ってしまわねばならない。数年前、最悪の環境悪化の少なくとも「いくつか」を阻止する確固たる法的防止策があると思われていた。政治的風向きの変化と共に、これらの防止策は粉々になり始めている。
一三四.上述した理由のすべてから、テクノロジーは自由の熱望よりも強力な社会勢力なのである。しかし、この言明は重要な留保をつけなければならない。次の数十年で、産業テクノロジーシステムは重大な緊張を経験することになるだろう。それは、経済的・環境的諸問題のためであり、特に、人間行動の諸問題(疎外、反乱、敵意、様々な社会的・心理的困難)のためである。このあり得る緊張をシステムが経験し、そのことがシステムを崩壊させるか、少なくともシステムを充分に弱めるかし、そのことで、システムに対する革命が可能になってほしいと我々は望んでいる。こうした革命が生じ、成功すれば、この特別な瞬間に、自由への熱望がテクノロジーよりももっと強力だと証明されるだろう。
一三五.一二五段落で、強い隣人によって一連の妥協を強いられ、自分の土地全てを取られ、貧窮してしまう弱い隣人の喩を示した。しかし、この強い隣人が病気となり、防衛できなくなったと仮定してみよう。弱い隣人は、強い隣人に自分の土地を返すよう強いることができるし、強い隣人を殺すこともできる。強い隣人を殺さずに、土地を取り戻すだけだとすれば、弱い隣人はバカである。健康になれば、強い隣人は再び土地をすべて自分のものにしようとするからだ。この弱い隣人にとって賢明な唯一の選択肢は、好機を逃さずに強い隣人を殺すことなのである。同様に、産業システムが病気になっている時に、破壊しなければならない。産業システムと妥協し、病気から回復するがままにさせておけば、最終的にすべての自由が一掃されてしまうだろう。
単純な社会問題ほど手に負えないと証明されている
一三六.自由をテクノロジーから保護するようなやり方でシステムを改革できると尚も勘違いしている人がいるなら、もっと単純で率直な他の社会問題に対する現代社会の対処がどれほど下手で、ほとんどの場合失敗しているのかを考えさせてあげよう。多くのことの中でも、システムは環境崩壊・政治腐敗・麻薬取引・家庭内暴力を止めることができていない。
一三七.例えば、環境諸問題を取り上げてみよう。ここでは価値観の葛藤は単純である。現在の経済的便宜vs孫の代への天然資源の保存である。(原註二二)しかし、この主題に関して、我々は、権力を持つ人々が述べている多くの戯言と精神錯乱を見るだけであり、明確で一貫した行動方針などは全くなく、孫の代が共生しなければならない環境諸問題を積み上げ続けている。環境問題を解消しようとする試みは、様々な党派間の闘争と妥協で成立している。ある党派が一時は優勢となり、別な時には他の党派が優勢となる。闘争の方向は、移り変わりやすい世論の潮流と共に変化する。これは合理的プロセスではないし、時宜にかなった上手い問題解決方法を導く見込みもない。大規模な社会諸問題は、よしんばそれが「解決」したとしても、合理的・包括的計画を通じて解決されることはほとんどない、というより、絶対にない。こうした諸問題は、自身の(通常短期的な)自己利益(原註二三)を追求する競合する様々な集団が、何らかの多かれ少なかれ安定した暫定協定に(主として偶然)到達するプロセスの中で、それ自体で解決してしまう。実際、一〇〇段落~一〇六段落で定式化した諸原則によれば、合理的で長期的な社会計画が「そもそも」成功できるのかは疑わしいのである。
一三八.従って、人間には良くても比較的単純明快な社会問題を解決することに対してすらも非常に限定的な能力しかないことは明らかだ。それなのに、自由とテクノロジーを調和させるという遥かに難しく微妙な問題をどうやって解決しようというのだろうか?テクノロジーは明快な物理的利点を示すが、自由は人によって異なる意味を持つ抽象であり、自由の喪失は、プロパガンダと派手な言説によってたやすく覆い隠されてしまう。
一三九.そして、この重要な違いに留意してほしい。現在の環境問題(例えば)は、いつの日にか合理的で包括的な計画によって解決されるかもしれないが、解決するとすれば、こうした問題の解決がシステムの長期的利益になる時だけだ、と考えられる。だが、自由や小規模集団の自律を維持することはシステムの利益には「ならない」。逆に、人間行動を最大限統制下に置くことこそシステムの利益になるのである。(原註二四)つまり、実利的判断は、最終的に、環境問題に対する合理的で良識的なアプローチをシステムに強いることができるかもしれないが、同じぐらい実利的な判断が、人間行動をさらにもっと厳密に規制(なるべくならば、自由の侵害を隠蔽してくれる間接的手段によって)するようシステムに強いることになるだろう。これは我々だけの見解ではない。著名な社会科学者(例えば、ジェームス=Q=ウィルソン)は人々をもっと効果的に「社会化することの重要性を強調している。
前篇の原註
一.(一九段落)「全ての」、より適切に言えば大部分の、いじめっ子と無情な競争者は劣等感に悩まされていると断言しておく。
二.(二五段落)ヴィクトリア朝時代に、過度に社会化した人々の多くは、自分の性的感情を抑圧したり、抑圧しようとしたりした結果として、重大な心理的問題に悩まされていた。フロイトは明らかに自分の理論をこの種の人々に基づかせていた。今日、社会化の焦点は性から攻撃へと移っている。
三.(二七段落)必ずしも工学などの「ハード」サイエンスの専門家が含まれているとは限らない。
四.(二八段落)こうした価値観のいくつかに抵抗している中産階級・上流階級の人々は数多くいる。しかし、その抵抗は多かれ少なかれ隠されている場合が多い。こうした抵抗は、非常に限定的にしかマスメディアには表れない。現代社会のプロパガンダの主眼は規定された価値観への賛同である。こうした価値観は産業システムにとって有用であり、主としてそのために、こうした価値観は、いわば、現代社会の公式的価値観になっている。暴力が阻止されているのは、システムの機能を妨害するからである。人種差別が阻止されているのは、人種の対立もシステムを妨害するからであり、差別は、システムに有用となり得るマイノリティ集団のメンバーの才能を無駄にしてしまうからである。貧困は「治癒」されねばならないが、それは、底辺層がシステムに対する諸問題を引き起こし、底辺層との接触が他の階層の士気を引き下げるからである。女性が職に就くよう勧められるのは、その才能がシステムにとって有用だからであり、もっと重要なことだが、定職に就くことで、女性がシステムにもっとうまく統合され、家族よりもシステムに直接関係するようになるからなのだ。これが家族の連帯を弱める手助けをする。(システムの指導者は、家族を強めたいと述べるが、その真意は、システムのニーズに従って子供達を社会化させる効果的道具として家族を機能させたいということなのである。五一段落と五二段落で論じているが、システムが家族やその他の小規模社会集団を強めたり自律的にさせたりすることはできないのだ。)
五.(四二段落)大多数の人々は自分で決定をしたいと思っておらず、指導者が自分達のためにその考えを実行してほしいと思っている、と主張することもできよう。ここには少しばかり真実がある。人々は些細なことについては自分の意思決定を行いたがる。しかし、困難で根本的な問題に関する意思決定をする際には心理的葛藤に敢然と立ち向かわねばならない。大部分の人々は心理的葛藤が大嫌いなのだ。従って、困難な決定を行う場合には他者に任せてしまうことが多くなる。しかし、だからと言って、人々が、こうした決定に影響を与える機会を持つことなく、決定が自分達に押し付けられたがっているというわけではない。大多数の人々は、生来の追従者であって、指導者ではないものの、指導者との直接の個人的接触を持ちたがっており、指導者に影響を与えることができるようになりたいと思っており、困難な意思決定にさえある程度まで参加したいと思っている。少なくとも、この程度までは、自律性を必要としているのである。
六.(四四段落)ここにリストした兆候の中には、檻の中の動物が示す兆候によく似ているものがある。こうした兆候がパワープロセスに関する剥奪状態からどのように出現しているのかを説明してみよう。人間性の常識的理解からすれば次のように言える。達成するために努力を要する目標がないと退屈になり、退屈が長く続くと最終的には抑鬱状態になることが多い。目標を達成できないことで欲求不満になり、自尊心が低下する。欲求不満は怒りを導き、怒りは攻撃を生み、配偶者や児童の虐待という形態をとることも多い。長期的な欲求不満状態は、通常の場合、抑鬱を生み、抑鬱状態は罪の意識・睡眠障害・摂食障害・自己に対する悪感情を引き起こすことが多い。抑鬱に向かう傾向を持つ人々は、防衛手段として快楽を求める。従って、貪欲な快楽主義と過剰なセックスを求め、新しい刺激を手に入れる手段として倒錯的なものを求めていく。退屈も、過剰な快楽追求を引き起こすことが多い。他の目標がないため、多くの場合、人々は快楽を目標として利用するからである。添付図を参照(訳注:図は添付されていない)。
上述は、一つの単純化である。現実はもっと複雑である。もちろん、パワープロセスに関わる剥奪状態は既に述べた兆候の「唯一の」原因ではない。ところで、我々が抑鬱状態について言及する際、精神科医が治療しなければならないほどの重篤な鬱を必ずしも意味しているわけではない。多くの場合、軽度の鬱だけを示している。また、目標について述べている時も、必ずしも長期的で綿密に考え抜かれた目標を意味しているわけではない。人間の歴史の大部分で、多くのもしくはほとんどの人々にとって、その日暮らしの存在(自分自身と家族にその日その日の食べ物を提供するだけの)という目標で全く充分だったのである。七.(五二段落)アーミッシュのような、より広い社会に対してほとんど影響力のない受動的で内向型集団のいくつかは一部の例外だと言えるかもしれない。こうした集団を別にしても、現代の米国には確かに、本物の小規模コミュニティが幾つか存在する。例えば、ユースギャングと「カルト」である。誰もがこうした集団を危険だとみなしている。確かに彼等は危険である。こうした集団のメンバーは主としてシステムに対してではなくお互いに対して忠実であり、従って、システムが統制できないからだ。また、ジプシーを取り上げてみよう。ジプシーは通常盗みと詐欺しても罪から逃れられるわけだが、それは、彼等の絆が次のようなものだからである。彼等は、他のジプシーに無実を「証明」する証言をしてもらうことができるのだ。明らかに、余りにも多くの人々がこうした集団に属してしまうと、システムは重大なトラブルに陥ってしまう。中国を近代化することに関心を持っていた二〇世紀前半の中国思想家の中には、家族のような小規模社会集団を崩壊させる必要性を認識していた者もいた。「(孫文によれば)中国人民には愛国主義の新たなうねりが必要であり、これが家族から国家への忠誠心の移動を導くことになろう。(中略)(衛立煌Li Huangによれば)伝統的愛着、特に家族に対する愛着は、中国にナショナリズムを発展させるとするならば、放棄されねばならなかった。」(Chester C. Tan, “Chinese Political Thought in the Twentieth Century,” page 125, page 297)
八.(五六段落)確かに、一九世紀の米国にはこの問題があり、重大な問題だった。ただ、ここでは簡潔に述べねばならないため、単純化して説明をせざるをえない。
九.(六一段落)「底辺層」は除外しておく。社会の主流についてここでは述べている。
一〇.(六二段落)社会科学者・教育者・「メンタルヘルス」専門家といった人々の中には、全ての人が満足いく社会生活を送るように面倒を見ようとすることで、社会的欲動を第一グループに入れるべくできるだけのことをしている人々もいる。
一一.(六三段落と八二段落)終わりのない物品収集の欲動は本当に広告・マーケティング産業の人工的創造物なのだろうか?確かに、物品収集に対する人間の生来の欲動はない。基本的な身体的必要を満たすのに必要な分以上の物質的富を望まない文化(オーストラリアのアボリジニ・伝統的なメヒコ農民文化・アフリカ文化のいくつか)は数多くある。一方、物品収集が重要な役割を果たしている前産業文化も多い。従って、今日の獲得志向的文化がもっぱら広告・マーケティング産業の創造物だと主張することはできない。しかし、広告・マーケティング産業はこの文化を創造する上で重要な役割を持っていることは明らかである。広告に数百万もの金を費やしている大企業は、売上増加で金を取り戻す確証がなければこれほどの金を費やしはしないだろう。フリーダムクラブのメンバーの一人は、数年前に一人の営業部長と会った。この部長は次のように率直に話をしていた。「私達の仕事は、人々に、欲しくも必要でもない物を買わせることです。」そして、未熟な新人社員が一つの製品に関する事実を人々に示しても全く売り上げが上がらない一方で、熟練した専門のセールスマンが同じ人々に対して多くの販売実績を上げていることを説明してくれた。このことは、人々は自分が本当に欲しくもないものを購入するよう操作されているということを示している。
一二.(六四段落)無目的性の問題は、過去一五年程度でそれほど重大ではなくなってきているように思える。人々が以前よりも現在は物質的にも経済的にも安定していないと感じており、安心の必要が一つの目標を与えてくれているからである。しかし、無目的性は、安心を手に入れることの難しさに対するフラストレーションに置き換えられてきている。我々が無目的性の問題を強調するのは、万人の安心を社会が保障するようにさせることで現代の社会的諸問題を解決したいと自由主義者と左翼が思っているからである。だが、そのようなことを行えば、無目的性の問題を復活させるだけのこととなろう。真の問題は、社会が人々の安心を上手く提供しているか下手に提供しているかではない。問題は、人々が自分の安心を自身で掌握せずに、システムに委ねていることにある。ところで、このことは、ある種の人々が武装する権利について感情的になる理由の一部でもある。銃を保持することで、こうした自分の安心という問題を自分の手中に置くのである。
一三.(六六段落)政府の規制の数を減らそうという保守派の努力は、平均的な人々にほとんど利益をもたらしていない。と言うのも、大部分の規制が必要であるため、わずかな規制しか撤廃できないのである。もう一つの理由を上げれば、規制撤廃に関わるほとんどのことが、平均的個人ではなくビジネスに影響し、その主たる効果は政府から権力を剥奪し、権力を民間会社に与えることだからである。平均的人々にとってこれは、自分の生活に対する政府の干渉が、大企業による干渉に置き換わる、ということであり、例えば、もっと多くの化学物資を廃棄できるようになって、自宅の上水道に流れ込み、自分が癌になってしまうかもしれない、ということなのである。保守派は、平均的な人々を騙し、政府に対する人々の恨みを利用して大企業の権力を増大させているだけなのである。
一四.(七三段落)誰かが、特定のケースでプロパガンダを使う目的を承認したとすると、その人は一般にそれを「教育」と呼んだり、似たような婉曲表現を使ったりするものである。しかし、プロパガンダは、それが使われる目的がなんであろうと、プロパガンダなのだ。
一五.(八三段落)パナマ侵攻を承認しているわけでも非難しているわけでもない。要点を例示するために使っているに過ぎない。
一六.(九五段落)米国の入植地が英国支配下にあった時、米国憲法が発行された後ほども法的な自由の保証は少なく、有効ではなかった。しかし、独立戦争前後の前産業時代の米国には、産業革命がこの国に根付いた後よりも多くの個人的自由があった。ヒュー=デイヴィス=グラハムとテッド=ロバート=ガー共編「米国の暴力:歴史的・比較的観点」の第一二章の四七六ページ~四七八ページを引用する。「礼儀作法の標準の進歩的向上と、それに伴う公式的な法律執行(一九世紀の米国における)の増加は(中略)社会全体に共通していた。(中略)社会行動の変化は非常に長期にわたり広く蔓延しているため、現代の社会プロセスの根幹--つまり産業的都会化それ自体--との関連を示している。(中略)一八三五年のマサチューセッツ州の人口は約六六〇九四〇人であり、八一パーセントが田舎で、圧倒的に前産業的で、生粋の米国人だけだった。市民は、大きな個人的自由に慣れ親しんでいた。御者であろうと農民であろうと職人であろうと、自分自身の予定を組むことに慣れており、自分の仕事の性質のために互いに物理的に独立していた。(中略)個人的諸問題は、罪であろうと犯罪であろうと、より大きな社会的懸念の原因になることはほとんどなかった。(中略)しかし、都市への移動・工場への移動という二つの動き--どちらも一八三五年には単に人を集める力に過ぎなかった--の影響は、一九世紀全体にそして二〇世紀に入っても個人の行動に対して漸進的効果を持っていた。工場は規則的な行動を、時計とカレンダーのリズムへの服従に支配され、現場監督とスーパーヴァイザーの要求に支配された生活を求めた。都市や町では、密集した区域に住まねばならなかったために、それ以前には異論が出されなかった多くの行為が抑制された。大規模組織にいるブルーカラーもホワイトカラーもお互いに仲間に依存し合っていた。一人の労働は他者の労働に合わせ、そのために、一人の事業は自分だけのものではなくなった。新しい生活・労働体系の結果は一九〇〇年までに明らかになった。マサチューセッツ州住民二八〇五三四六人の約七六%は都市生活者として分類された。寛容で独立した社会ならば耐えることのできた暴力や型破りな行動の多くは、その後のもっと形式的で協働的な雰囲気の中では受け入れられなくなった。(中略)結局、都市への移動は、それ以前よりも、もっと従順で、もっと社会化され、もっと「文明化された」世代を生み出したのだった。」
一七.(一一七段落)システムの擁護者は、選挙が一票か二票で決まった事例を引用したがるが、そのような事例は稀である。
一八.(一一九段落)「今日、テクノロジーが進歩した土地では、人々は、地理的・宗教的・政治的違いとは無関係に、非常に似通った生活を送っている。シカゴのキリスト教徒の銀行員・東京の仏教徒の銀行員・モスクワの共産党員の銀行員の日常生活は、このうちの一人の日常生活と千年前に生きていた一人の人の日常生活が似ている以上に、遥かに似通っている。こうした類似性は共通テクノロジーの結果なのである。L. Sprague de Camp著「The Ancient Engineers」Ballantine edition、一七ページより。これら三人の銀行員の生活は「同じ」ではない。イデオロギーは確かに「幾ばくかの」効果を持っている。だが、全てのテクノロジー社会は、生き残るために、同じ軌跡に沿って「近似的に」進化しなければならないのである。
一九.(一二三段落)無責任な遺伝子工学者が数多くのテロリストを創り出すかもしれないと考えればよい。
二〇.(一二四段落)医療の進歩が望ましくない結果をもたらす事例をもう一つ示すために、信頼できる癌治療が発見されたと仮定してみよう。治療が非常に高額でエリート以外に誰も受けることができない場合であっても、治療の発見で、発癌性物質の環境流出を止めようとする気が大きく減じられてしまうだろう。
二一.(一二八段落)多くの人々が、多くの良いことが結局は一つの悪いことになり得るという考えをパラドックスだと見なすと思われるため、ここで、アナロジーを使って例示してみる。AさんがBさんとチェスをしていると仮定する。Cさんはチェスの名人で、Aさんの肩越しにゲームを見ている。もちろん、Aさんはゲームに勝ちたいと思っている。そのため、CさんがAさんのとるべき好手を指摘したと仮定すると、CさんはAさんに手を貸していることになる。しかし、ここで、CさんがAさんに「全て」の手番を教えたとしよう。CさんはAさんに手を貸し、一つ一つの動きについて好手を示すが、手番「全て」を示すことで、ゲームを台無しにしてしまう。Aさんの手番全てを他の人が行うならば、Aさんがゲームをする意味など全くないからである。現代人の情況はAさんに似ている。システムは個人の生活を無数のやり方で容易にしているが、そのようにすることで、自分自身の運命の統制力を剥奪しているのである。
二二.(一三七段落)ここでは社会の主流内部での価値観の対立だけを考えている。単純にするために、原生自然の方が人間の経済的福祉よりも重要だという考えのような「アウトサイダー」の価値観は考慮から外している。
二三.(一三七段落)自己利益は必ずしも「物質的」自己利益とは限らない。例えば、何らかの心理的欲求を自身のイデオロギーや宗教を発達させることで満たすこともそうだと言える。
二四.(一三九段落)留保:幾つかの領域である程度まで規定された自由を認めることは、システムの利益になる。例えば、経済的自由(適度の制約と制限を伴う)は、経済成長を促す上で効果的だと証明されている。しかし、計画され境界が明らかで限定された自由だけが、システムの利益になるのである。常に個人は紐で繋がれていなければならない。その紐が時として長いものであったとしても(九四段落と九七段落を参照)。