日常を形作る「名づけえない時間」を意識したい

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本日の日経朝刊の文化欄、作家の滝口悠生(たきぐちゆうしょう)氏の「家事と小説」は響く内容だった。

作家業のかたわら家庭の家事を主に担当している作者。
家事は、時間や労働力だけでは計れない奥深い大変な仕事だと日々実感しているという。

なにしろきりがない。たとえば部屋に掃除機をかけながら、いったいどこまでかければいいのかを考える。… 今日のところは掃除機の先端部が届く範囲で済ませるか… 部屋はひととおりきれいになるし気持ちよいのだが、埃を残したあの部分のことが心中にはしっかりと刻まれる

家事以外の仕事でも”きりがない”と感じる瞬間はそこここにある。

しかし、普通の仕事の場合、優先順位の高いわかりやすい目標が設定されていることが多いから、それ以外の”きりがない”些末な部分は気にしなくていい。

それに対し、家事の場合、明確な目標などないし、おぼろげな目標が達成されたとしてもそこに明確な評価は与えられない(ことが多い)。だからこそ、日々「壁際の埃のように」やり残したという事実が心に積み重なっていくのかもしれない。

がたが来ているフライパンと鍋をなぜ早く買い替えないのかと妻は言うが

いろいろ検討はしてみるのだが、その私と鍋がともにした時間を含めて比較してしまうから、今の鍋の代わりになるような新しい鍋が見つかるはずがない

主夫ではない自分にも気持ちがよく伝わってくる。

 
そして、このコラムでもっとも刺さった箇所がこちら。

実際の毎日の家事労働には、何ものでもない、名づけえない時間がたくさんある。そういう、どうとはうまく言えない、けれどもたしかに毎日毎日繰り返される時間のつかみがたさのなかに今自分がいるなあ、という気づきのようなものが、小説家としての自分にとってとても貴重だと思う。そういう時間は、言葉にしづらい。たとえば日記をつけていても、そういう時間はなかなか記述されない。小説家の仕事は、言葉にしづらいことや時間、まだ言葉になっていないことや時間を、どうにかこうにか言葉で以て人に呈示することであると思うから、そういう気づきの感触を覚えておきたい。

家事以外であっても、人の一日は、おおよそ「名づけえない時間」で成り立っているのだろう。
そこを意識して毎日を過ごすと、見える風景も変わってくるかもしれない。

それを言葉にしてくれようとしている滝口氏に強い興味も持った。
いずれ彼の作品をぜひとも読んでみたい。


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