都営三田線の迷走の歴史

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都営三田線。

個人的に、母親の実家が三田線沿いにあったということもあり、親しみがある路線。
渋谷や新宿、池袋はおろか上野や秋葉原なども通らない地味な路線ではある。
その地味な路線の、翻弄される運命が記事になっていた。

5/4の日経朝刊、「都営三田線、迷走の歴史」。
Web版にも掲載されている。

大手町にある地下鉄駅5つのうち、都営三田線のみが住所が丸の内、残りは大手町、これがなぜかという問いかけから記事はスタートする。

三田線の大手町駅の住所は「丸の内1―3―1先」。
初めて知ったのが、最後につく「先」という文字。
なんでも、出口が道路上の場合住所がないため最後に「先」がつくとのこと。

で、その住所が丸の内となった理由はというと…

朝夕のラッシュが激しい大手町駅は、ホームをなるべく広く造る必要がある。ホームの形状は「島式」と呼ぶ、ホームの両側に電車が発着するタイプが適しているという。

 
地下鉄は通常、道路など公共用地の地下に造る。ビルなど民有地の地下だと買収や補償など費用がかさむからだ。このため、地上にある道路の幅を超えないよう設計する必要がある。千代田線と三田線の上にある日比谷通りの幅は、島式ホームを横に2駅分並べるほど広くはなかった。

 
都としては、本当は今の千代田線大手町駅、二重橋前駅、日比谷駅がある場所にそれぞれ駅を配置したかった。でも大手町では先に東西線の場所が決まっていたので、同じ営団の千代田線が優先されてしまった。千代田線大手町駅のさらに北側には、駅を造るだけのスペースがなかった。

結局、都が譲歩する形で決着。大手町から日比谷までの間に、三田線は2駅しか設置できなかった。

なんだか、都営三田線らしい逸話である。

まだまだ、三田線の迷走ストーリーは終わらない。

もともと6号線と呼ばれていた三田線は、5号線(現在の東西線)の支線として浮上したという出自がある。大手町駅から分岐して、神保町、白山、巣鴨を通り、板橋に向かうルート。
1962年、これを6号線として独立させることが決まり、1号線(現在の都営浅草線)と同じレール幅(1435ミリ)を採用。

しかし、その直後、北は東武東上線、南は東急池上線に乗り入れることになり、レール幅を両社に合わせて1067ミリに変更した。

しかし、計画はすんなりとは進まず…

問題となったのは、1号線(浅草線)と6号線(三田線)が並走する「泉岳寺(港区高輪)~桐ケ谷」間の工事だった。同区間は1号線は都、6号線は東急が工事を担当することになっていた。

都としては、とにかく1号線を早く開通させたい。そのため6号線ともども、工事を急ぎたかった。これに対して東急は、周辺開発などが進んでいない段階での6号線建設に及び腰だった。

両社の言い分は食い違うところもあるが、要は東急としては採算がとれないと踏んでいたのだろう。

結局、東京都はこの桐ケ谷~泉岳寺間における両線工事の同時施行を取りやめ、1965年2月に、1号線単独施工による早期着工を東急電鉄に通告したのち、翌1966年6月に同区間工事に着手した。

なお、上に登場する桐ケ谷駅だが、今はなく、現在の東急池上線大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間地点あたり存在したという。

さらに、東武東上線との直通計画も輸送量への思惑がずれて頓挫。

6号線は1号線の規格に合わせ、車両の長さ18メートル、8両編成を予定していた。これに対し東武東上線は20メートルの車両を考えていた。将来的には8両から10両編成に増やすことも検討していたという。輸送量増強を見込む東武にとっては、都の計画は力不足と映った。必要となるホームの長さも違う。

しかし、計画浮上から40年経ってようやく終止符が打たれる時が来た。

光が差したのは85年。都市交通審議会が三田線と南北線、東急目黒線との直通構想をまとめたのだ。都はこれを受け入れ、00年にようやく直通が実現した。

南北線、目黒線との直通というのも地味で、三田線っぽくていいなと感じざるをえない。

それにしても、特に鉄道好きではないにもかかわらず、この日経の「東京ふしぎ探検隊」(河尻定)シリーズは興味深く読んでしまう。
都市開発に関わる大きな存在でありつつ、街作りに色濃く影響する身近な存在であるからだろう。

<<追記>>
そういえば、Web版のほうには出ていなかったが、東京の鉄道のレール幅がわかりやすくまとめられていたので載せておく。
rail


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