人びとのかたち/塩野七生著

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hitobitonokatati

塩野七生氏による、映画に関するエッセイ。

氏はイタリアに関連する歴史物の作家として有名だが、自分がそちら方面があまり得意でないこともあり読んだことはない。
本作が、初めて接する氏の作品となった。

 
まずは、わたし自身も好きな映画、「月の輝く夜には」。

待ち合わせ場所であったメトロポリタン・オペラの前にあらわれた女(シェール)の美しい変わりように、眼を見張りながら男(ニコラス・ケイジ)は「おしゃれしてくれて、ありがとう」と言う。

女に対して常に成功を収める男の武器は、美貌でもなく教育程度でもなく、ましてや社会的地位や経済力ではまったくなく、ただただ言葉の使いようにあると思っているのは、私だけではないにちがいない。… おしゃれしてくれてありがとう、とは、ニクイ台詞だ。深い関係になった男女の、それもこの関係がまだはじまったばかりの時期にしか使えない。なぜなら、男は、女のおしゃれの目的は彼にあることを、半ばは確信している

イタリアで暮らす作者ならではの表現。

 
続いて、ダスティン・ホフマン、ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロの演技派俳優3名がアメリカ映画をダメにしたという主張。

昔は、彼らのような演技の達者な俳優は、脇をかためるほうにまわっていたのである。… それが今や、巧みな演技者イコール、スターの時代になってしまったのである。

なかなか、こうもはっきりとは言えない。

そして、その結果はというと

私の場合だと、人間世界を憎みはじめている。… あまりにも巧みな演技でもって示してくれるものだから、もうほとんど突きつけられているという感じさえもってしまうのだが、それによって示される人間世界の現実に、わかりましたよ、でももうけっこう、の心境だ。
 
創作という行為は、ほんの少しにしても誇張することなしには成立しえないのである… 常に少しにしても誇張された人生の現実を突きつけられて人間嫌いになるのを避けたい

これは、納得。
子どものころ「レインマン」「レナードの朝」などを観た後に感じた違和感は、まさにこれだった。

この人たちの成功に幻惑された亜流となるともういけない。アカデミー賞を狙うのはけっこうだが、それが麻薬中毒や車椅子や娼婦やレイプされた女を演じないともらえなくなってしまった現状は、映画を愛する者としては嘆かわしいかぎりである。

この意見に全面的に賛成というわけではないが、一時期のアカデミー賞界隈は確かにこんな感じだった。

この三人に比べられる女優側の代表者となればメリル・ストリープと思うが、私は彼女が大嫌いである。人生の苦悩を一身に集めたような顔はしないでよ、それこそ傲岸不遜というものです、とでも言いたくなる。

ここまで言うか!?という全否定発言。苦笑してしまう。

筆者が思わず苦笑した、どこかの誰かによる一文。

一度もベッドをともにしていない男というのは、女にとってはなんとも不安な存在だ。なぜなら、どの辺まで無理を言ってかまわないかを、計りようがないからである。

女はベッドで「物差し」を手に入れることで、男が不安な存在ではなくなると。

 
1930~40年代のアメリカについて。

アメリカの大衆は、気の強い女は許すのである。才能に恵まれた女も許すのだ。しかし、その女が人並みな幸せまで手中にすることは許さない。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラが、この典型ではないかと思う。そして、キャサリーン・ヘップバーン以外のアメリカ生まれの女優たちは、気の強い女を演じるとアバズレになってしまうのである。スカーレット役は、イギリスから連れてくるしかなかったのである。

この部分の言わんとしていることは、正直今の自分にはピンとは来ない。
いずれ、この時代の作品を見返す際に、吟味してみたい。

 
ロビン・ウィリアムス主演の「いまを生きる(原題:Dead Poets Society)」について。

キティ先生が最も嫌うのは、他人の考えを疑いもせずに受け容れてしまうこととそれゆえの凡庸なのだ。… 生徒たちの幾人かは、ほとんど熱狂的なまでの彼の弟子になった。ただ、十七歳にはまだ、自分をコントロールする能力が充分でない。キティ先生はそれも教えるのだが、あの年頃にとっての自由は暴走につながりやすい。

教育の難しさを、的確に表現している。

キティ式教育方法は実に疲れる教え方である。カリキュラムを順に消化していく方法とちがって、教師に大変な負担を強いる教え方だ。なぜなら、教える側が自分の頭で考え、しかも生徒たちの隠された欲求を刺激しなければできないのだから。… 自らの全人格を相手にふさわしいやり方でぶつけるのは、体重を減らすほどの労苦である。

彼の教育方法は憧れを生むが、現実的ではないと。

問題は、もう一つある。私の家を訪ねてくる日本の若い人たちを観察していると、自由な教育を受けた人たちよりもなぜか、伝統的な教育を受けた人のほうが将来性を感じさせるのである。理由はわからない。不自由のほうが人間の成長に役立つのか、と思ったりしている。

これは、面白い洞察だ。
自分の周りではどうだろう、と考えてみようとしたが、日本で自由な教育を受けた人を探すのは容易ではなさそうと思い至った。

私はふと、教科書以外の書物の存在理由は、キティ先生的なるものを求める人が絶えなかったからではないかと考えた。「骨」は学校で教わったのですでにある。その「骨」に「血と肉」をつける。それが教科書以外が出版されつづける、ほんとうの理由ではないのか、と。… キティ先生に教場を与える学校はない。彼は作家になるしかないのでは、とさえ思う。

ここで、氏の存在理由につながる。

 

シャンパンというものはなぜか、女一人で飲んではちっとも面白くないものなのだ。

それは、男一人でも同じだとは思うが。

 

それにしても亭主という種族は、なぜああも妻の買い物に同行するのを嫌うのか!

自分の胸に聞いてみれば良い。

 

兵士というのは、平然と味方を犠牲にする将には従いていかない。ハンニバルもスキピオもカエサルも、無用な犠牲は払わないことによって、兵たちの信頼を得ていた武将である。

歴史作家ならでは。

 
大人の女の恋にフィーチャーした「モロッコ」。マレーネ・ディートリッヒ演じるアミーは、外人部隊のゲイリー・クーパーに一目惚れしてしまう。

一目惚れというのは、若い女特有の現象ではない。女は、一目惚れする女としない女に二分されるとさえ、私は思っている。一目惚れしない女は、例えば学校時代の友達同志が自然に愛を育てて結婚に至るというタイプ。着実を好む、堅実型なのだろう。一目惚れしやすい女は、その反対である。ただし、ごく若い女の一目惚れは「あら、ステキ!」の程度だから、神さまは罰を与えない。罰を与えるのは、オトナの女の一目惚れに対してである。

作者は父親の影響を受け、ほんとうに好きな女優はマレーネ・ディートリッヒしかいないと言う。
彼女が出ている映画がテレビで放映されればすべて録画するし、ドイツ語の写真集までもっていて、辞書を引きつつ読んでいると。
そのなかで、13,000円払って購入した「マレーネ」というドキュメンタリーについて触れている箇所がある。

このフィルムは、奇妙なドキュメントだ。インタビューされている彼女は、一度も画面に登場しない。もう死ぬほど撮されたから、というのが理由だが、聞き手でもあり監督でもあるマクシミリアン・シェルがどんなに頼んでも、彼女は頑として応じない。… いわゆる想い出ばなしにも乗ってこない。… ほんのときたま批判するが、それがアイロニーに満ちていてしかも的を得ているので、思わず微笑してしまう … こんなふうに非協力的な彼女だから、ドキュメントも理路整然と進むどころの話ではない。だが、この理路整然でないところが、いかにも彼女を撮したドキュメントらしくて面白い。

マレーネ・ディートリッヒについて多くを知らない自分ではあるが、このドキュメンタリーの説明だけで俄然興味が湧いてきた。

 
差別について。

禁句とか差別用語とかは、それを口にすることは禁止できても、それを想うことまでは禁止できない。もちろん世の中には感受性の鈍い人間はたくさんいるから、彼らの胸中の想いをせめては外に出させない効用はあるだろう。だが、そのような想いをもともと持っていない人の間でフランクな交流まで、阻止する弊害があることを忘れていはしないか。
 
差別をなくす唯一の道は、禁句や差別用語を使わないことではなく、面と向って堂々と言い合うことではないかと考えている。… 口には出さなくても胸のうちでは思っていれば、誰にだってわかる。そのほうが性質の悪い、そしてほんとうの意味の差別ではないだろうか。

言っていることはその通りだと思う。
ただし、「世の中には感受性の鈍い人間はたくさんいるから、彼らの胸中の想いをせめては外に出させない」という効用を重視せざるをえない時勢ではある。哀しいことに。

 
古代ローマ時代における、エピキュロス派とストア派について。

エピキュリアンを、日本では快楽主義者とか享楽主義者と訳している。この反対と思われているストア派は、禁欲主義者とか克己主義者と訳されている。これではどうも、単純すぎる分類だ。この両派の哲学が盛んであった古代ローマ時代では、ストア主義者とは共同体や国家の運営に一身を捧げる生き方を選んだ人々であり、反対にエピキュロス派は、個人生活の充実に重きをおく考えの人々だった。

これは能力の差ではなく、立場のちがいであったと作者は考えている。

単なる快楽でも享楽でもなく、むしろ禁欲的で克己的な生き方であると思うくらい、エピキュリアンを貫き通すことはむずかしい。レオナルド・ダ・ヴィンチの一生がそれだった。

時代は異なるが、ここにダ・ヴィンチが登場する。

 
フェリーニへのインタビューで、彼曰く

自分のやりたいことをやりたいように作るのは、少しもむずかしいことではない。むずかしいのは、やりたいことをやりたいように作りながら、それをコマーシャルベースに乗せることだ

作者も、この言葉を座右の銘としているらしい。

インタビューだけでは、フェリーニはわからない。結局、彼の作品を観るしかないのだ。評論など読むのは無駄である。作品しか、彼をあらわさない。そして、最高のフェリーニを味わうのに、『甘い生活』と『フェリーニのローマ』を頂点とする。あそこでのフェリーニは、嘘を描くことで真実を浮びあがらせながら、私たちを、どうだ!と挑発している。

この二つの作品は、ぜひ私も観てみたい。

 
ビリー・ワイルダーのゲイリー・クーパー評。

彼が、女という女にモテた秘密だが、それはなにもクーパーが、内容のある話をすることで女を魅了したからではない。ただし彼は、聴くことは知っていた。わたしは確信をもって言えるが、女の話を聴くときの彼は、特別にそれに注意を集中してさえいなかった。ただ、話しつづける女から視線は離さず、そしてときどき、次の三句のいずれかで口をはさんだ。
『まさか』『ほんとかい』『そういう話、はじめて聴くよ』
こんな調子で女に胸のうちを吐露させているうちに、女たちは自然に彼とベッドを共にするようになる、というわけだ

作者も苦笑していたが、なんと、このブログでも書いた『合コンのさしすせそ』と変わらないではないか。

 
作者は自分の他の作品を、休暇中に読むことを読者に勧めている。

私は、一度読んだだけではわからないようには書いていないつもりだが、二度読むともっとよくわかるようには書いている。なにしろ、ヨーロッパのルネサンスでも古代ローマの文明でも、日本人にとっては異文明なので、学校教育の段階で下準備がなされていない。土地カンだってないだろう。それを読み進むのだから、日本や東洋の歴史書を読む場合よりも強い好奇心が求められても、しかたがないではないか。

地図やら美術書を眺めつつ、塩野七生の歴史書を読む。なんとも贅沢な気がしてきた。
アルコールも飲みながらだとなお良さそう。すぐに夢の中へ旅立ってしまいそうだが。

 
全体を振り返って。

作者のイタリア歴史というバッググラウンドから生まれる知識やものの見方から学ぶこともあったし、小気味良い語り口調にスカっとさせられる点も少なくなかった。
一方で、少女のような人間評に可愛らしさも感じられた。塩野七生氏の魅力の一端を垣間見れた気がした。


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