愉楽の園/宮本輝著

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快楽の園

かなり好きな部類に入る、作家の一人、宮本輝。
大阪への往復の移動の際に読もうと、本書を手に取る。

もともとは文藝春秋に連載されていたもので、連載期間は1986年5月号~1988年3月号まで。
舞台はタイ、バンコク。

80年代中盤から後半にかけてのタイの様子が伺える。
本書に登場する新聞記者の口から、タイの政治の状況が語られるが、それから30年ほど経った現在も、タイの政情はしばしば不安定で、たいして変化していないことが想像できる。

自分自身も90年代の中盤から00年頃まで、何度かバンコクは訪れていたので、その時感じた空気を思い出しながら、小説の世界に入り込むことができた。

以下、記憶に留まった箇所。

 
タイの高官であるイアムサマーツが、恵子に一目惚れし、アプローチをしたくだり。

食事をご一緒にいかがでしょう。もしお友だちもいらっしゃるならば、そのかたもどうぞご遠慮なく。そのかたが素敵な恋人ならば、私は三十バーツを受け取って寂しく帰ります

欧米的な、知性も余裕も感じられ、かつ用件をしっかり伝える力もあるメッセージだなと感心。
恵子に一度、やんわりと断られると

私の勇気は、いつも空振りに終わる

と。小説的な台詞。

 
世界中を旅してきた野口の言葉。

思想と宗教だけは、弾圧すればするほど逞しくなる

無償の愛というものはないけど、無償の悪というものはある。俺はそう思ったよ。

「無償の愛」よりは、「無償の悪」のほうが、信じられそうな気はする。

 
タイに長く住んでいる新聞記者の小堀が野口に対して

クロントイには、ひとりでは絶対に足を踏み入れるなよ。あっちこっちにスラム街はあるけど、クロントイ地区だけは特別だ。遊び半分で行ったら、生きて帰れないぜ

調べて見ると、今現在もクロントイのスラムは存在し、夜は麻薬の売買も行われているそう。しかし、80年代ほどの危険さはないようだ。(比較の問題だが……)

 
野口の恵子への言葉。

これだけは言っときますよ。日本人は、どこの国でも馬鹿にされてるんです。…… 差別されてる人間てのは、差別をする人間を馬鹿にしてるってことを忘れちゃいけない

差別されている人は、差別する側を馬鹿にしている。腑に落ちる言葉。

 
野口と出会った恵子が、この二人の関係が友達のままでいられたら、イアムサマーツと結婚できるはずと確信するところで。

それは極めて演繹的な閃きであったが、演繹的であることによって、逆に恵子に自信をもたらしていた。

「演繹的であることで、逆に自信をもたらす」。
これはピンと来なかったが、わからないがゆえに、心に残った。

 
野口が、マイの家で、魔法にかかったように置屋の少女コニーとの性交渉に没頭したことを振り返って。

人間の命から無数に突き出た一本の紐を少し性的にねじっただけだ

 
姉のスワンニーが小堀と結婚して日本へ行くことになりそうなチラナンへ、野口がかけた言葉。

人間は祖国で生きるのが一番いい。外国は、旅人のための土地だ。

これは、当たっている気もするし、人によるんじゃないかという気もする。

作中で、恵子とイアムサマーツ、野口が訪れる水上マーケット「ダムナーンサドウック」。アルファベットではDamnoen Saduak と表記し、日本語でも今は「ダムヌンサドゥアック」と表記されることが通常のよう。予想はしていたが、現在はより観光地化されている様子。

 
イアムサマーツが野口に。

私は多くの日本人とつき合って、日本人だけの狡猾さが何であるかに気づきました。それは、いつ、いかなる場合においても、つまり、友情や恋や、仕事のための計画や、あるいは利害の絡まない問題などに対処する際でも、必ず出口を作っておくということです。必ず逃げ場を準備しておく。

これはピンと来なかった。自分にその気がないが、自分を客観的に見れていないだけなのか。
他の国の人と比較できるほど、他の国の人のことを知らないからか。

 
恵子は、一晩を共にした野口に「さようなら」というメッセージだけを残し、イアムサマーツ・サンスーンと結婚することを決意する。しかし、最後の最後で、その気持ちを翻す。

しかも、それまでは嫌っていた、男色家であり、主人であるイアムサマーツに好意を寄せるエカチャイに対し、一緒にダンスを踊ったことでか、奇妙な感情を寄せつつ。

恵子は、自分と踊っているときのエカチャイの、痛々しいほどの神経の使い方を、途方もなく哀しいものに感じ、もはや自分の力ではどうすることも出来ないエカチャイの運命を思った。…… 恵子にとって、いまエカチャイは奇妙な倒錯者ではなく、自分とはやり方が異なるだけの、背負い込んだ悲哀に支配されている極く普通の人間に変わっていた。

そして、恵子はこう呟く。

もう茶番劇は充分だわ。あんたたちだけで、これからもつづけてたらいい。あんたたちは、泥棒で、人殺しのごろつきよ

そして、続ける。

人間が、愛情に事寄せてどれほどの詭弁を弄するものかをサンスーンは気づくがいい。それこそサンスーンの得意の手口だったのだから。私もまた、その手口を使おうとしていた……。

 
それまでは、隅から隅までほとんど理解しながら読んでいるつもりだったが、この最後の数ページで、一気にわからなくなり、置いてけぼりにされた気分になる。

イアムサマーツ・サンスーンを捨て、日本に帰ろうとしていることはわかるのだが、なぜ。。。
何が「茶番」なのだろう、何が「詭弁」なのだろう。

まいった。

なお、この作品のタイトルの由来となった、ヒエロニムス・ボスによる絵画「快楽の園(もしくは、悦楽の園)」は、こちら。
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