俵万智さんの「よつ葉のエッセイ」を読んで

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yotsubanoessay

父親から譲り受けた本のうちの一冊。

俵万智さんの作品に触れるのは、『サラダ記念日』、『もうひとつの恋』(2005年12月に書評)に次いで三作目となる。
いずれも80年代のもの。

以下、心に留まった箇所を記していく。

出会いと同機は、いってしまえば単純なことであった。何かとの出会いや、何かをはじめるきっかけとは、そもそもそんなものであろう。私たちは実に単純なめぐりあわせで、たくさんのものに出会う。日常生活には、無数のきっかけが転がっている。問題は、どの出会いを大切にし、どのきっかけを生かしてゆくか、その選択にある。そこに自分というものがあらわれる。私の場合に即していえば、佐佐木幸綱という人との出会いを大切にし、短歌を作りはじめたということを生かしつづけて、そこに自分を反映させようとしているのである。

出会い自体は運命などではなく、単なる偶然。
だが、その出会いを大切にしたこと自体は必然だと。

 
短歌について。

「短歌」というと、なぜか梅だの鶯だの、花札の図柄みたいなものを題材にしなくてはならないもの、と思いこんでいる人が少なからずいる

わたしもその一人だったかもしれない。
「くれぐれも誤解しないように」と俵さんは言っている。

自分の思いを、この定型に収束してゆくこと、それが短歌による表現ということである。定型のリズムを獲得した言葉たちは、生き生きと動きはじめ、私の手から泳ぎ出し、うまくすれば、読む人の心にまでたどりつく。私の思いが読む人に伝わるとき、このリズムの果たす役割は大きい。魔法の杖とは、たんなる比喩ではなく、実感としてある。

五七五のリズムは確かに魔法だなと私も思う。

自分の中の無駄なごちゃごちゃを切り捨てて、表現のぜい肉をそぎ落とし、最後に残ったなにかを捕まえる。そのときの<網>の役割を、定型は担ってくれる。そこには、切り捨ててゆく緊張感がみなぎっている。あるいは、切り取ってくる充実感、ともいえよう。短歌は、短い。短いが、歌である。そして短いがゆえに、歌なのである。

“短いがゆえに、歌なのである”…… ここはよくわからなかった。が、いつかわかる瞬間が訪れるような気もしている。
それにしても、短歌の人だなあとつくづく思わされる、文章のリズムの良さ。心地良い。

 
続いて、短歌&それに付随する作者のコメントのようなもの。

「砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている」
 
買物や料理、洗濯などといった日常の中に、揺れる「気分」のようなもの。それを「気分」としてそっとつかみ出したい。そこに現代が映し出されれば、と思う。

「気分のようなもの」を、「気分」としてつかみ出し、そこに「現代」を映し出す。
歌人らしい感性と彼女の人となりが凝縮されている一文だ。

「夕焼けてゆく速度にてコロッケが肉屋の奥で揚がり始める」
 
小さいとき、市場の肉屋の店頭で食べたあつあつのコロッケ。…… 「おじさん、一個ちょうだい!」この”一個”がおいしい。100グラム160円、200円。きちっとした値段をつけられた肉たちは、とても正直そう。198円の「買って、買ってェ!」がなくて、セーラー服の娘さんみたい。

そうそう! わかるわかる!
コロッケは、ぜったいに一個が美味しいんだ。
きちっとした値段を”正直そう”と評するのも、好きだなあ。

 
電話と手紙について。
作者はかなりの手紙好き。

電話は便利だ。機能的。けれどある意味では暴力的である。…… 一方でそのことは、時間の共有をもたらしてくれる。現在(いま)という時間の共有。

電話は暴力的だが、いまを共有できる。

手紙を書いているとき、私たちは相手の現在を知らない。受けとるときの様子も知らない。…… 相手がなくては書けないけれど、返事がなくても書けてしまう。それが手紙なのである。電話は、返事がなくては成立しない。

手紙は相手は必要だけど、返事はなくても書ける。
電話は、”返事”が必要というよりは、相手が自分の話を聞いてくれるという”態度”なり”気分”が必要といったほうが正しい気はする。

たとえば書き出し--いちばん簡単で便利なのが<前略>。とりあえずそれだけ書いてみる。<前略>。ホラもう手紙ははじまっている。<前略>。たったひとことの助走が、とても気持ちをラクチンにしてくれるのだ。

いやー、そう言われると、自分も「前略」と便箋に書いたら、助走がついてスラスラっと気持よく書けそうな気がしてきた。

誰かへ手紙を書くということは、その人のことを思う時間を持つということだ。その時間を封筒に詰めて、送るのである。手紙そのものが、その時間の消印になる。

その人のことを思った時間を封筒に詰めて送る。
なんとも、洒落たことを言うなあ。

 
『中島みゆき全歌集』が出版されて。
井坂洋子氏によると

中島みゆきは、歌をつくり、歌をうたう人だ。そのことは、この人の詞のことばに対する姿勢の基盤を明らかにしているうように思う。『歌』なのだからそれでいいのだとして書いているところがある。もっとはっきり男女関係なり、人間の心というものをとらえようとすれば歌ではなくなってしまうが、ここまでは歌になるという境界線ぎりぎりのところまで行っているのである

そういう意味で、短歌と異なり、歌詞は独り立ちするには、かなりのハンディを背負っていると。
「人間の心というものをとらえようとすれば歌ではなくなってしまう」ってのと、「ここまでは歌になるという境界線ぎりぎりのところ」っていう線引きが新鮮。
歌詞は、人間の心をとらえようとはしていない、、、のか。
完全には理解できていないが、、、そう言われればうっすら納得はできる。

 

装丁は中身とわかちがたい。その本の大きさや表紙やレイアウトから、(無意識的にせよ)何らかの影響を私たちは受けざるをえないのである。不用意に<中身>などという言葉を私は用いたが、正確には、本には中身も外身もない。ただただすべてをひっくるめて<本>なのだという気がする。

おっしゃることはもっともだが、装丁にまったくといっていいほど気を留めていない自分が少し恥ずかしくなった。

『サラダ記念日』に対し、歌人の高野公彦氏から「キレはあるけどコクはない」と評されて。

歌のコクは「否定精神」から生まれるということである。否定の対象は、現実であり、自己である。そこから生まれるコクがあることは確かだと思う。否定するためには、対象を正確に厳しく見据えなくてはならない。が、コクはそこからしか生まれない、とも言えないだろう…… 無防備な肯定も、否定のための否定も、詩にはなりえないだろう。肯定は幼児性へずっこける可能性を持つ。一方、否定は逃避にすりかわる危険性を持つ。

「ずっこける可能性」と「すりかわる危険性」のセットで、リズムが良くなり、印象づけも強くなっている。

 
筆者が、あわただしい日常の中で、自分が見えなくなりそうになると必ず開く本が『星の王子さま』だという。

王子さまと100パーセント一緒に、びっくりしたり悲しくなったり不可解に思ったりできるとき、心はわりと健康である。半分笑いながらも、半分考えこんでしまうとき、心はちょっと荒れはじめている。くらーい気持ちになって、王子さまのことばがたいそう身に沁みてくるとき、心はとても危険な状態。…… <要注意>のときは、思いきり王子さまのことばを、心にすりこむようにしている。
「さがしているものは、たった一つのバラの花のなかにだって、すこしの水にだって、あるんだがなあ……」

一度、『星の王子さま』を読んでみようかなという気になった。

 

立ちどまれ句読点をうつように二十五歳の深呼吸をする

”立ちどまり”ではなく、”立ちどまれ”なんだな。

 

十二月は、思い出す月である。年賀状を書いて、あの人のこと、この人のこと、一年ぶりに思い出す。お歳暮、クリスマスプレゼントは、あげる人、もらう人、人間関係の再確認だ。忘年会-こんなにたくさん、忘れたいことがあったねと、あらためて、人々は思い出す。

十二月が愛おしく思えてくる。

そして、ふるさと。自分の根っこを思い出す。十二月三十一日の夜、どこにいるかということ、誰といるかということ、それはその人の根っこを、端的に物語るものだろう。帰省ラッシュ。それは人々の、根っこ確認のエネルギーだ。…… 帰ってみればなんでもない。なんでもないからふるさとなのだ。…… 自分が根っこであることを、ふるさともまた、思い出す。

この作品が書かれた時から30年ほど経っているわけだが、それでもなお、大晦日の夜に、どこに、誰と、どんな気分でいるか。それは確かに自分の”根っこ”がどこにあるかを物語る要素を抱えている。しかし、それがすべてを物語るとはいえない時代にはなってもいる。

 

ゴールデンウィーク。盆や正月とは一味違った国民的休暇の一週間である。…… これをしなくてはならない、ということがない。…… <休日>。ただそれだけである。

GWはただの休日か (笑

 
そして、夏。

ペパミントグリーンの風が吹いたから恋の終りをのばす七月

“ペパミントグリーンの風”という単語のチョイス、時代感にクラっと来つつ、懐かしいものを感じる。
“恋の終りをのばす七月”に、女性のしたたかさも感じる。

くるはずの夏は、きてしまった夏よりも、ずっと輝いている。<待つ>ということの喜びを、存分に味わわせてくれる月、それが七月だ。真夏に向かって、人々は、時間の積木を組み立ててゆく。そして積木は、最後の一つを積みあげたとき、終わる。夏が頂点に達したとき、それは夏の終りの始まりである。

自分の人生をふりかえってみると、特に学生時代までは、休み期間中こそ何かに追い立てられていて、七月に<待つ>ということの喜びを感じた記憶がない。
しかし、存分に夏を楽しめる環境にあり、楽しめる気質を持ち合わせていた人にとって、七月とはそういう月なのだろう。

今まで五分かかっていたトーストも、四分半で焼きあがる。あ、空気が乾いてきたんだなと思う。朝の三十秒の、そんなところにも夏はきている。コーヒーが、さめにくくなる。

トーストの焼き上がりの時間の変化で、夏の訪れを感じるって、自然といえば自然だが、自分にとってはなんだかオシャレに感じる。

 
作者は体育が苦手だったと。

社会人になるときは、「ああこれで<体育の時間>というものから永遠に解放されるんだ」と、そのことがまっ先に、そしてつくづくしみじみ嬉しかった。わりと大らかな子どもではあったが、それでも結構傷ついてきたのである。

自分は体育大好き少年だったから作者とは正反対ではあるが、それでも、”わりと大らかな子どもではあったが、それでも結構傷ついてきたのである”という一文には共感した。傷つかずには学生時代なんて過ごせません。

 
ふるさとと東京について。

ホームシックのくせに。福井が好きでたまらないくせに。東京にいる。自然のふところで暮らしてきた日本人が、長く「自然」という言葉を持たなかったように、ふるさとに包まれてしまうと、そのとたんにふるさとが見えなくなってしまうような、そんな気がするのだ。…… 東京には、いろんな人間がいていろんな出会いがある。おもしろくて寂しくて物がよく見える。…… 心はいつも引き裂かれている。ふるさとに帰りたくて。東京で生きてゆきたくて。

「ふるさとに包まれてしまうと、そのとたんにふるさとが見えなくなってしまう」というのは、そうでもあるだろうが、比較的一般的な話で、こう言う作者に若さも感じる。
一方で、「おもしろくて寂しくて物がよく見える」というのは、この作者ならではの感性だ。

 
母について。

母は私の母であることを通して、母親というものになっていった-そのあたりまえといえばあたりまえのことを、しばらく思いつづけていた。

あたりまえだが、うーーーんと考えてしまうテーマ。

 

女が、失恋した女を慰めるとき、そこにはどうしてもひそかな自己満足と優越感が入ってしまうような気がする。あるいは一人の男が、失恋した女を慰めるとしたら、なんといってもそこにはある下心が見え隠れする。

ほぉほぉ。ふむふむ。

いわゆる彼氏と彼女のつき合い、というものは、意外と薄っぺらなものであることが多いように思う。それは人を有頂天にさせ、信じられないほどのエネルギーをくれるけれど、人と人とのつながり、という点から考えると、それほど深くないこともしばしばである。

いわゆるステディな関係というものは、「信じられないほどのエネルギーをくれる」が、「人と人とのつながりという点から考えると、それほど深くないこと」も多い。いやぁ、おっしゃる通りだ。

 

高校時代に知り合った仲間というのは、ほんとうに貴重なものだ。お互いを(あるいは自分を)まだ何者とも規定しえない段階で、純粋に人間同士として出会い、つき合っていける。多感な青春時代を共有していける。…… 人として、その根っこのところで信じ合っている、とつくづく思う。…… 人は年をとるにつれて、その人間を外部から規定するものを、だんだんと多く背負うようになる。そんなものは関係ないよといってみたところで、現実には、それがその人間を大まかにつかむ手がかりとされることは、確かである。…… それはあくまでも大まかな、一面的な人間像なのである。にもかかわらず、もっともっと本質的な部分でのお互いを、見ようとする努力が、続いてなされないことが多い。それが問題なのだ。

これには同意できる面と、そうじゃない面とが半々。
高校時代だろうが、小学校時代だろうが、外部から規定されるものはある。カッコよくてモテたり、成績が良かったり、足が速かったり。
自分自身も、高校時代の仲間のことは好きではあるが、それが果たして”根っこのところで信じ合っている”といえるかどうかは、彼らとどんな時間を共有してきたかによるだろう。
大人になって知り合った仲間とだって、共有した時間の性質によっては、根っこのところから信じ合える人はできる。
もう一つ、人は少しずつは変わるもの。大人になったときに、高校時代の根っことは違う根っこに変わっていることだってあるだろう。

 

100パーセント作りごとでは人の胸を打つことはできないだろうが、100パーセント身の上話では、もっとつまらない。

100パーセント身の上話では「つまらない」んじゃなく、「もっとつまらない」というのが響いた。

 
田辺聖子著「風をください」の解説から。

「この夏、イヨイヨ私は三十五になるのだ。(中略)三十四はまだ、そこはかとなき期待や色けの感じられるトシであった。『四』という字もひびきも、一種のはにかみのようなものがあった。しかしどうだ、『五』には、『それが何なのさ』とふれくされた印象があるではないか。字もひびきも図太くなっちゃってる」

これは俵万智の言葉ではなく、田辺氏の作品の中からの引用だが、このくだりから無性に読んでみたくなった。まんまと乗せられている(笑

 
西安の夏。

長くて暑い夕方を、人々は路上で過ごしていた。机を持ち出して碁を打つ人、縁台に腰かけながら大きなうちわを使う老人、子どもとアイスキャンデーを食べる母親-思い思いの夕涼みの光景には、なつかしいような、もっといえば、せつないような、そんなのどかさがあって、私はしばしば感嘆の声をあげた。

こちらは、「もっといえば、せつないような、そんなのどかさ」という表現に感嘆の声をあげそうになった。

通訳の王さんに「いいですねえ。こうやって人と人が語り合って、家族が団らんしている風景。やすらぎを覚えます。日本では見られないことです」と話しかけると、彼はとても不思議そうな顔をした。「なにがいいのですか。みんなブラブラしているだけのことです。日本では人々は何をしていますか」「これだけ暑いと、クーラーのある部屋に引っ込んで、ビールでも飲んでいるでしょうね」。彼はそっちのほうがよっぽどいいという顔をする。

郷愁にひたりがちな現代日本人への戒めとして。

日本語では何でもないことだが、中国語をもってすると、まことに不思議な道具として「言葉」は実感された(そして、その不思議さと対照的に実感されたのは、モノとしてのリンゴの手ざわりの確かさである)。

筆者が歌人ということもあり、必死で歌を作っていると、言葉そのものが目的のように錯覚してしまうが、そうではないことを再認識したと。

同様のことは、お金についても感じられた。外国の紙幣を見ると「ああ、お金って紙だったんだなあ」とつくづく思う。…… モノとしてはあくまで、ただの紙である。言葉が記号であるのと、それはよく似ている。そしてしばしば、お金も<手段>という本来の役割を忘れられて<目的>と化してしまう点も、同様であろう。

“言葉”と”お金”をわかりやすく結びつけてくれる筆者。腹落ち度高し。

私が最も強烈に<旅>を、そして<非日常>を感じたのは、西安を離れる朝であった。…… ここにある彼らの日常と、帰国後営まれるであろう私の日常とのあまりのかかわりのなさに、私はなんともいえない気持ちになった。それぞれの日常。その間の空白を埋める、何物もありはしないのだ。異分子である自分を、はっきりと自覚した。おそらくそのときはじめて、私は<旅人>となったのである。

旅行記も読んでみたいと思わせる、この感性。

みそひともじの自画像

この章は、男女間の歌や話が多い。

恋人との電話について。これはフィクションも含まれていそう。

あなたと私をつなぐ不思議な電話という名のラブマシン。会っているときよりも、ずっと近くにあなたの声を聞いている。けれど受話器を置いたらみんな消えてなくなる夢マシン。長く話していればいるほど切りたくなくなる麻薬マシン。

モー娘のラブマシーンよりだいぶ前の時代。うまいなー。

 

なんの前ぶれもなく、落ちてくる雨。だからなんの前ぶれもなく、屋台ののれんをくぐる。にわか雨よりにわかに、なんだか生きているっていうことが、楽しいなって思えてくる。

「にわか雨よりにわかに」がナイス。

 

男はいつも走っていてほしい。いつもいつも走っていてほしい。右足と左足-同時に地面につく瞬間を、もたずに生きていてほしい。

ただ単に「男はいつも走っていてほしい」だけだと刺さらないが、「右足と左足-同時に地面につく瞬間を、もたずに生きていてほしい」をはさむことで途端にありきたりじゃなくなる。このセンス。

 

あなたはあなたの未来を語る。私は私の今を見ている。あなたが走る人生の、風景としてある私。…… けれどほんとは走りたい。風景の中から抜け出して、あなたと一緒に走りたい。…… 私は生きてる人間だから。

 

「いつもより一分早く駅に着く 一分君のことかんがえる」
時間と時間の隙間にするりと、あなたのこと考える。時計の針がひとまわりする。そんなちっちゃな時間にキラリと、あなたのこと考える。

“ちっちゃな時間”にチラリとではなく、”キラリ”と考えるんだなあ。

 

「思い出はミックスベジタブルのよう けれど解凍してはいけない」

”ミックスベジタブル”にまずやられる。色とりどりのビジュアルが咄嗟に頭に浮かぶ。

思い出は思い出すときだけ美しい。

 

嬉しければ嬉しいほどその嬉しさが不安になる。幸せが好きだから幸せのむこうの、ちょっとした不幸に敏感になる。

 

「金曜の六時に君と会うために始まっている月曜の朝」
「約束」にむかって流れる時間。「約束」にむかって流れる気持ち。「約束」は私の日常をときめき色にぬりかえる。…… 待つことのしみじみ。待つことのドキドキ。待つことのいらいら。待つことのワクワク。待つことのムムムム。待つことのうふふふ。

繰り返しの文が持つ勢いについ踊らされてしまう。歌人の彼女たるゆえん。

 

「好き」と言ったら終わってしまう何かがあるのを知っている。…… 好きかもしれない、キライかもしれない、かもしれないからひかれてく。断定された心はその場で否定に向かってゆくようで。

“断定されると、そこから否定に向かっていく”に、揺れやすい心のありようが伺える。

 

「「平凡な女でいろよ」激辛のスナック菓子を食べながら聞く」
あなたのための私になりたい-ような、なりたくないような。…… 平凡という語の非凡。スナック菓子の軽さと辛さであなたの言葉をかみしめる。

ちょっとキレイにまとめ過ぎているようにも感じられる。

 

「今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海」

 

母が、一人の娘から、一人の女になった年。結婚をして、子どもを生んで、一つの家庭を持ったころ。その年齢に近づいてゆく、一人の娘である私も。母が女に見えてくる。母の女がみえてくる。…… 母と娘の会話はいつか、女と女の会話になる。

具体的にどんな会話なのだろうか。気になる。

 

毎年同じで毎年違う秋の風景に、いつも揺れてるコスモスの花。去年と同じ場所に咲く。去年と同じ色で咲く。けれどおまえは去年の秋を知らずに今を生きている。思い出すことなんにもなくて、思い残すことなんにもなくて。

これ、なんかグっと来る。
植物をそんな視点で眺めたことなんて今までなかったから。

古人もすなる歌日記

「何層もあなたの愛に包まれてアップルパイのリンゴになろう」

イメージをびしびし喚起してくる。

 
羽田に向かう車の中で共同通信の取材を受けるも、渋滞で遅れそうになって。

立花さんはまっ青になって、空港に電話をかけ、運転手を励まし、私にはひれ伏してあやまり、しまいには世界中のありとあらゆる神様を呼び出して祈りはじめた。

「世界中のありとあらゆる神様を呼び出して」祈るってよく聞くけど、実際には見たことない。
いずれにしても、立花さんが好きになる。

 

昨日の内灘は素晴らしかった。その余韻を抱いて、今日は富来の海。

内灘(うちなだ)も富来(とぎ)も、ともに石川県の町。

 

だいぶ手紙がたまってしまって、20センチほどの地層を形成している。下の方ほうが化石にならないうちになんとかしなくてはと思うのだが、なんともできないうちに毎日が終わってゆく。

ふふふ。

 

「まっさきに気がついている君からの手紙いちばん最後にあける」

わかるわかる。

 
二十五歳の誕生日の日。

朝一番の電話はやはり両親から。それを皮切りに「お誕生日おめでとう」が次々と届く。電報が三つ、速達が二つ、電子郵便、いくつかの電話、バースデーカード、お花、絵本。

彼女が時の人であったこともあろうが、愛されていることがわかる。バラエティの豊かさには時代を感じる。
今なら、LINE、Facebook…

 
東京ステーションホテルについて。

すっかりファンになってしまった。東京駅の中というのか上というのか、とにかく赤レンガの建物に組みこまれていて、窓からホームが見えたりする。素敵に不思議なホテルなのだ。

存在は知っていて、何度もここにホテルあるんだよなあと思って眺めてはいるが、なかなか泊まる機会がやってこない東京ステーションホテル。
特に用事も必要もないけど、一度泊まりに行ってみたい。
まずはディナーあたりから。

 

「東京へ発つ朝母は老けて見ゆこれから会わぬ年月のぶん」

これから会わない年月のぶん老けて見えるって、視点が面白い。

 
こうやって振り返ってみると、おっそろしく自分に響く箇所が多い作品だった。
本作に出会えた幸運に感謝。親に感謝。


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