宮脇俊三さんのエッセイ「椰子が笑う 汽車は行く」を読んで

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yashigawarau

宮脇俊三氏の著作は、数年前に「シベリア鉄道9400キロ」を読んだことがあり、その本は捨てずにとってある。

本作には昭和58年~59年頃に書かれた鉄道旅行に関する四篇が収められている。

以下、備忘録的に、心に留まった箇所を列挙。

フィリピン。北方線の途中駅ダグパンからマニラ行きの列車に乗る。

客たちの荷物で目立つのは「ニワトリ」である。いずれも生きているニワトリで、段ボールに入ったのもいるが、剥き出しのまま大事そうに胸に抱かれているのや足で踏みつけられて床に平伏しているのもある。…… これはクリスマス・プレゼント用だという。田舎で元気に育った地鶏はおいしいので都会の人に喜ばれるのだそうだ。それにしても、あちこちでコッコ、コッコと鳴いて、うるさい。

長時間ニワトリたちと同乗するのはしんどそうではあるが、想像すると自然と笑みがこぼれる。「地鶏」という言葉が当時からあったことを知る。

沿線には人家が多い。…… 草葺きの民家の軒や裏庭をかすめる。その裏庭を、汽車に驚いた地鶏が駆けまわる。水牛がもの憂げに寝そべっている。その腹から尻にかけての量感。子山羊を抱いて汽車を見上げる少年もいる。素っ裸の子どももいる。垂れ下がったオッパイを露わにして、ぼんやりと縁に坐った婆さんも窓外を過ぎていく。ときには臭気も漂ってくる。…… 実をつけたパパイヤの木がある。各種の椰子もある。ときどきバナナの葉が音をたてて汽車の窓を払う。

窓外の様子が目に浮かぶ描写だ。

「棺蓋って評価定まる」。人間の真価は、死んでから決まるという意味だが、作中では、一日が終わってから、その日の評価は決まるという意で使われていた。

異国の汽車に乗って、それが走り出すときの感触には格別のものがある。理解してもらうに困難なことだろうし、筆舌にも尽くしがたいのだが、満ち足りるものがある。車両の設備の良し悪しなど、どうでもよくなる。

頭で理解する事ではないのかもしれない。ただただ、「異国の汽車に乗って、それが走り出すときの感触」を想像すると背筋がゾクゾクする。

続いて、タイ~シンガポールのマレー鉄道に乗って。

バンコクにて。
バイクで、鞄をかかえて父親の腰にしがみついている子どもが目立つ。現地に住む日本人曰く、

子どもを一人で学校に通わしますとね、誘拐されるのです。それで、ああして父親が学校まで運ぶのです。

さらっと言っているが、すごい話だ。そんな国だっけか。

バンコクは地盤が軟弱で地下鉄をつくるには金がかかりすぎるのだそうです。ビルも、地震もない国なのに高いものは建てられないのです。

これはさすがに、現在は克服されていそうではある。

タイ、ナコンパトム駅にて。

駅舎の白い漆喰の柱に赤い横線が二本引かれている。一本は100センチの高さで、これより身長の低い子どもは無料であることを示す。もう一本は150センチで、これ以下ならば半額となっている。中国式の子ども運賃適用の基準だが、それがタイでもおこなわれているのだった。

列車があんがい揺れないことに感心する筆者。

列車が揺れるかどうかは車両よりも道床の手入れの良し悪しによって左右される。道床は路盤とレールとの間のクッションの役割を果しており、保守を怠って放置すると凝固して乗り心地を悪くするのである。そういえば、きのうの北線でも線路際に待避して列車の通過を待つ保線係たちの姿を幾度も見かけた。前回のフィリピンの劣悪な鉄道では保線係などまったく見なかった。アメリカの鉄道も相当にひどいもので、一流の車両が三流の線路を走っているとの印象を受けた。

なんでもタイでは鉄道員の地位が高いのだという。

マレーシアとの国境の駅、パダン・ベザールにて。

いろいろと面白くない国境駅だが、ガランとした待合所の隅に売店があり、冷えた缶ビールがあった。喜んで飲むと、のどを過ぎる一瞬の快適さの代償がたちまち汗になって出る。

「のどを過ぎる一瞬の快適さの代償がたちまち汗になって出る」というくだりに、深く共感する。

マレーシアに入った途端、ノロノロ運転なのに横揺れがはじまる。しかし、これだけをもって、タイよりもマレーシアのほうが質が劣るという判断はできないと筆者は云う。

日本の道路事情が悪かった頃の話であるが、県境を過ぎたとたんに舗装道路から未舗装の泥んこ道へ、あるいはその逆、ということがしばしばだった。それには一定の型があって、要するに各県とも東京方面へ向う道路の改良と保守に力を入れていたのである。…… マレーシアの鉄道は北よりも南、つまり、クアラルンプールからシンガポールの方向に重点が置かれているのではなかろうか。

説得力のある話。

 
皆既日食ツアーでインドネシアのジャワ島へ。

「皆既日食帯」の地図を見ると、プルヴォルジョは中心線上にある。ジョグジャカルタのホテルの庭か、近くの空地で観測するのかと思っていたが、中心線上まで移動すれば、皆既の時間が九秒長くなるのだそうだ。つまり、五分一秒を五分十秒にするために、六三キロをバスで一時間半、観測準備日を含めると二往復するわけである。…… 当方も鉄道の時刻表マニアとされる人間であるから、寸秒を争う話になると意気投合する。行くか行くまいか迷ったこともあったが、気合いが入ってきた。

9秒のために63キロを移動する。その気持ち、理解はできる。

この四日間、椰子の木の美しさには見惚れるものがあった。けれども、椰子の木は文明人を嘲笑っているように見えてしかたがなかった。…… 長い棒の先に「笑」という字を乗っけると、椰子の木そっくりになる。

このくだりが、本書のタイトルにもつながっている。

 
解説から。
木村尚三郎氏。

鉄道の旅と自動車の旅は、根本的に違うのですね。自動車というのは絶えず空間を移動するものですから、一ヵ所に執着することがありません。…… 鉄道の旅になると、タイムテーブルというものがありますから、勝手に動くわけにはいきません。…… 一つの町とじっくりつき合わざるを得ないのですね。…… 汽車の旅は、まさしく結婚に似ていまして、じっくりつき合うことで、深く土地が分り、ひいては小さな町から国全体の風俗、習慣、人情も分ってくる。そういう意味で、確かに能率は悪いけれども、自動車の旅より遥かに面白いのではないでしょうか。

鉄道での旅は、その不自由さゆえに、車での旅よりもその街を深く知ることができると。

さらに、木村氏は列車が動き出すときの気持ちをこう表す。

その瞬間の気持というのは、定着型の人間が持つ一種の不安感であり、同時に満足感でもあるわけですね。…… たとえ一晩でも馴れ親しんだ土地から離れて別の土地へ行くことの不安と歓びです。

上でも触れたが、著者がいうところの「異国の汽車に乗って、それが走り出すときの感触」が格別だという話が、より深く理解できる。

山崎正和氏はこう云う。

鉄道というのは、単なる乗りものではなくて、制度なんです。その証拠に、宮脇さんは、いつも時刻表を気にしている。つまり、宮脇さんの関心の対象は、鉄の塊としての列車でもありますが、それ以上に、制度としての時刻表なんですね。

鉄道は制度。これは卓見だ。時刻表が好きなのは制度のルールを知ることが好きだということか。腑に落ちる。

鉄道はそもそも、町をまとめあげる方向に働きます。駅でしか乗れないのですから、その周辺に否応なく人が集まるわけですね。一方、自動車は、どこにでも止まれますから、町を分散させる方向に働きます。

アメリカ(の新しい都市)とヨーロッパ(の古い都市)の違いをイメージしてしまう。

 
と、全体を振り返ってみると、著者の鉄道の蘊蓄に好奇心が刺激されたというよりも、鉄道が好きでたまらない著者(や解説者)の好きな気持ちの一部をおすそ分けしてもらい、共感させてもらった感が強い一冊だった。

ただ、本書を読んでも、鉄道での旅、特に発展途上国での鉄道の旅をしたいという気持ちがわきあがっていない自分を顧みるに、歳をとったもんだなと思わずにいられない。


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