風紋/乃南アサ著

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風紋

乃南アサの長編小説を読むのは初めてだ。
もしかすると、彼女の作品自体に接するのも初めてかもしれない。

本書は家族からの貰い物。ストーリーをまったく知らないまま電車での移動中の供に良いかと思い手にとった。
そこに間違いはなく、犯罪小説で読みやすく、スラスラとページを捲ることができた。

ただ、この本の前に読んだのが宮部みゆきの「模倣犯」で、同じく長編の犯罪小説だったから、どうしても比較しながら読んでしまう。本作も決して面白くないわけではないが、「模倣犯」と比べるとどうしても色褪せてしまう。

その色褪せて感じてしまう原因を考えながら読み進めることになったが、思うに、小説の題材や構成は決して悪くはなく「模倣犯」に遜色ないだろう。しかし、決定的に違うのが、本書のテーマとなっている題材の読者への伝え方だ。どの登場人物の口を借りて、どういったシチュエーションで、どういう表現で読者に伝えるか。

この伝え方が、「模倣犯」と比べると劣っているように思えた。その一つの原因は、本書の主人公が高校生の女の子だということもあるだろう。一般的な高校生の表現する内容で、大人が大きく心動かされることはないのは仕方がない。ただそれだけではなく、筆者の技巧的な未成熟さも感じた。

本作の出版は1994年で、筆者が34歳の時。その後、1996年に上梓した「凍える牙」で直木賞を受賞していることを考えると、筆者のまだ発展途上段階で書かれた作品なのかもしれない。

決してつまらない作品ではない。
ただ、後に残る大きな何かがあるわけではない。そこにもったいなさを感じた。

以下、気に留まった表現や内容をメモ。

新聞記者の建部が、被害者の娘である真裕子と初めて会話するシーンから。

建部が不安を感じる前に、真裕子は絶望的な程に静かな表情に戻り、また口だけを動かした。

建部は老成しているように見える真裕子に関心を抱きつつ、心配もする。
絶望的な程に静かな表情に戻」るという表現。
短く、難しい言葉も使われていないだが、脳裏にその表情が浮かび印象に残った。

 

天井は、今朝も、がらんと乾いた広がりを持ち、少し前に真裕子に馬鹿馬鹿しい想像をさせたことを思い出させる。確か、この天井まで、部屋の一部として使えたら広くていいのにとか、そんなことを想像したのだと思うけれど、それがいつのことだったかは、はっきりと思い出すことは出来なかった。

他人からは大人びて見える真裕子だが、内面には子どもらしさがある。
むしろここなんかは、小学生のような無邪気さが感じられる。

 
容疑者が送検される際、警察署から出て車に乗るまでの間に報道陣に囲まれるという、よく見る光景について。

この一瞬を見届けたとしても、記事として載るのは「終始俯きがちで」とか「青ざめて唇を噛みしめ」とか、決まり文句の一行で終わってしまうのだ。上司や先輩たちは「確かに民主的な方法で、法に則った形で、送検された事実を見届ける必要性」などと説くが、結局のところは、ただの覗き趣味なのではないかと、建部はいつでも思っている。
 
実際これは、一つの儀式のようなものだった。警察と報道との、奇妙な友好関係が如実に現れる瞬間と言っても良かった。…取調担当の刑事の配慮によっては、被疑者は手元を隠してもらったり、頭から刑事の衣服をかけられたりして、顔が分からないようにされている。けれど今回、刑事は誰一人として、松永にそういう親切心を抱かなかったらしい。

さほど不思議に思っていなかったが、言われてみれば、報道陣の前に容疑者の姿をさらさないようにすることなど物理的には簡単なはずだ。そこには「民主的な方法で、法に則った形で、送検された事実を見届ける」なる大義名分があると。こっそり送検されると国民から国家権力への監視が届かないじゃないか!というわけだろうか。

 
建部が、容疑者松永の妻・香織の、公園でのママ友に取材して。

こんな取材をする度に、好奇心こそは一応満たされるものの、ひとときの充実感の後には、決まって同じ無力感にとらわれた。

人の不幸は蜜の味。その蜜にたかる一員でもある社会部の新聞記者としては、そりゃあ無力感に苛まれ続けることだろう。もちろん、世の中の大方の仕事において、多かれ少なかれ無力感にとらわれるのは避けられないことだろうが。

 
香織は義弟に「義姉さん、強くなったみたいだな」と言われるが

でも、強いばかりじゃないわ。-本当は、もう何も考えたくないのだ。

と心に思う。
何も考えたくがないために、がむしゃらに何かに取り組むことは確かにある。

 

一階からのエレベーターで義弟だけ直接六階まで上がらせて、自分はフロントに寄れば、それで良い。まさか、そういう時の為にフロントが二階にあるわけではないだろうが、ずいぶん都合の良いホテルを選んだものだと思った。

これは単純に、本当にそういう理由なのだろうか!?と驚いて。気になって調べて見たが、やはりそれ以外の理由があるようだった。

 
裁判は誰のため?という話。

裁判は、公開という形をとってはいるけれど、家族を殺された身の上の真裕子たちでさえ、口を挟むことなど出来る所ではなかった。母のことも、真裕子たちも置き去りにして、一体何を決めようとしているのか、真裕子たちにとって、どんな意味があるのか、そのことが良く分からなかった。本当に母や真裕子たちのことを考えてくれる場所は、一体どこにあるというのだろう。… 何故、殺した人のことばかり騒いで、真裕子たちのことは置き去りにされなければならないのだろう。

民事裁判だと別だろうが、刑事裁判は確かに被害者のために行なわれるものではない。
「被告人対国」という構図だ。
それでも、被害者の関係者からしてみると、金銭面の問題だけでなく精神面の点からも自分らにとって死活問題である裁判にほぼ関わることができないのは、もどかしさを感じるところだろう。

本当に母や真裕子たちのことを考えてくれる場所は、一体どこにあるというのだろう」。
被害者及び被害者の家族の救済はもちろん国にとって重要な問題として認識されているが、それが制度として充分に機能しているようには思えない。

 
この小説のケースでは、被害者は絶対的な無垢な被害者ではなく、加害者と不倫をしていたという事実があるので、残された家族はより危うい立場に置かれる。他人に対しても、心から助けを求めにくい。この構図は「模倣犯」に登場する真一にも類似するものがあるが、その立場におかれた当人らの心の不安定さは尋常じゃないだろう。

残酷な内容にはなるが、もっと真裕子や、その家族に揺さぶりをかける内容のほうが良かった気はする。自分も外に女を作っていた父親など、受けているダメージが小さく、読者からすると消化不良である。


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