死の壁/養老孟司著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

死の壁 書評 感想

養老さんの本は、遠いむかーしに読んだことがある記憶が微かにある。もしかすると、それは本ではなく雑誌のコラムか何かだったのかもしれない。

おそらく、脳に関するテーマだったはずで、興味深く読んだのは覚えている。当時、氏は医学部の教授を務めており、自分が全く知らないテーマについて比較的平易な言葉で説明してくれていた。

その後、氏はベストセラー作家の地位に就く。
一連の著作をちゃんと読むのは本作が初めて。

以下、心に留まった箇所。

なぜ人を殺していけないのか

その答えはシンプルで、「殺したら二度と作れないから」。
そして、他人という取り返しのつかないシステムを壊すということは、実はとりもなおさず自分も所属しているシステムの周辺を壊していることになるから。人は自分一人では生きて行けない。

「他人ならば壊してもいい」と勘違いをする人は、どこかで、自分が自然というシステムの一部とは別物であると考えている

では、人間は殺してはいけないけれど、牛や豚ならいいのか。
それについての答えは、仏教がさまざまな形で示してきている。無闇な殺生は戒められている。
ベジタリアンだって何らかの形で生き物の犠牲のうえで生活をしている。

そう考えると、つまるところ、人間が健やかに暮らしていくための線引きの問題という気はする。

「本当の自分」は無敵の論理だが

どんなに自分が変わろうと、常に今現在の自分を「本当の自分」だとし、過去に「変わった部分は自分じゃない」とする。この論理は自由に使える。しかし、そんなことはあり得ない。

養老さんは、それを近代特有の意識だと云う。

近代化を典型的に示したのが、明治時代に作られた戸籍制度である。それまでは幼名があって、元服すれば名前が変わって…ということだったのに、一度生まれたら名前が変わらないことになった。当たり前じゃないか、と仰るかもしれないが、そうだろうか。生後すぐの赤ん坊の私と、年をとって爺さんになった私とが同じ人間であるはずはない。そう思うほうが当たり前ではないだろうか。

近代以前、『平家物語』や『方丈記』などの中世の日本文学に代表される思想というのは、「人間は移り変わるものだ」という考えだったと。
「人間が移り変わる」というのは、当たり前のことに感じられるようでいて、今の社会は人間が移り変わっていることから目を背けているようにも思える。

養老さんが赤ん坊の時と爺さんの時を別人だと説明しているが、私自身を振り返っても、20歳のときと今とでさえ、かなり違う人間になっているように思える。
例えば、学歴とか職歴とか前科歴とか、最近の話ならともかく10年以上前のものに拘るのは、判断における怠慢としか思えない。

のようなことを考えていたら、本書の後ろのほうに学歴についての話があった。

日本の大学は、一種の共同体だと。だから入るルールには公平性が求められ、お金で入るという発想は忌み嫌われ、逆に入った後は、共同体から勝手に抜けることも許されないと。

本当の学歴というのは、「あいつは○○大学を出たから当然、こういうことは出来なくてはいけない」という考え方が一般化したときに意味を持つはずだ。が、今のところ日本ではそういうことにはなってない。

アメリカでは、お金の力で大学に入ることは問題とされないが、中で勉強をして機能集団の一員となる努力をしないと卒業をさせてもらえない。そういう違いがある。

死の恐怖は存在しない

自分の死について延々と悩んでも仕方が無い。

そこで悩むのは、そもそも「一人称の死」が存在していると思っているからだろう。死ぬのが怖いというのは、一人称の死体を見ることが出来るのではという誤解に近いものがある。……極端に言えば、「(自分の)死とは何か」というのは、理屈の上だけで発生した問題、悩みと言えるかもしれない

この指摘については、自分自身を考えてもそうだと思わされる。
「死んだらどうしよう」と考える時、「一人称の死」の存在は思考の奥の方に、どっしりと構えているからだ。

この例え話が必要なのかわからないが、養老氏はここで「口」の話を持ち出す。

「口」とは何かというと、実は実体がない。……解剖学の用語からも削られてしまっている。……唇は存在している。舌も存在している。では「口」はどこになるのか。それは穴でしかない。実体がない。建物の出入り口もそれと似ている。

「自分の死」とは関係なく、この「口」の話はよく使われるのだろうが、私は初耳だったので楽しめた。

娯楽の中の「死」と実際の死

娯楽で見る「死」というのは、どんなにリアルに見えても実在ではなく、むしろイマジネーションの死体のほうがグロテスクだと。

大体、人間は想像のほうを膨らませてしまうもの。勝手に想像して本物より怖いものだと思ってしまう。地震や火事も、実際に起こったら怖がっている暇はない。ふだんとはまったく違う精神状態になるから、パニックになるか、変に落ち着いてしまったりするかのどちらか

[adsesnse]

日本独特の胎児に対する感覚

日本では胎児が人間として認められたことはない。それは、

生まれてくるまでは親の一部であり、独立した人間ではないということが世間の常識だから

だと云う。
そして、母子心中が日本では外国よりも多いのも同じ考え方に基づくのではないかと。

子供が社会に出てきてからも、母親のほうではどこかで自分の一部だと見なしているから

だろうと。

脳死と人工妊娠中絶と死刑

死の基準を決めるということは、自分らの仲間から外すルールを決めるということ。
そこには構成員の総意が必要となる。

しかし脳死の議論は、特定の機能集団である医者が中心に進めたため、その後の調整に時間がかかった。
日本古来からある、暗黙の了解のうえに成り立っている共同体にとって重要な問題ゆえの話。

一方で、妊娠中絶については日本では揉めなかった。
諸外国では必ずしもそうではない。例えば、アメリカでは脳死については大して揉めなかったが、人工妊娠中絶に関してはいまだに揉めている。これは共同体のルールの問題だから。

また、死刑については、日本人は昔からはっきり容認してきている。国によっては宗教が暗黙のルールと強く結びついていて、それが死刑をしない大きな理由だったりもする。日本でも、近年死刑反対論も出ているが、それは冤罪の場合を考えてのことで、共同体の暗黙のルールから出ているものではないと。

臓器移植法の不思議

簡単に言うと、臓器移植法の結論は「脳死は死ではないが、臓器移植は可である」ということ。
ここにこそ日本の社会の特徴がよく出ている。

「脳死は死だ」という断定を避けないと、村八分を規定するルールにひっかかってしまう。全員一致じゃないのに、そんなことを決めてはならない。しかし臓器移植は進めていきたい。となると、結局、この答えにならざるをえない。

こんな非論理的なルールが通用するのは日本だからだろうと。

靖国問題の根本

中国には「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考え方がある。……中国人は死んだあとも「そいつはそいつだ」と思っているからだろう。死んだからといって別人になるわけではないのだ、と。

靖国問題の根本もここにあると、氏は説く。

日本には死者は別物だという暗黙の了解がある。だから乃木神社、東郷神社のように、軍人も死んだら神様としておまつりすることが出来る。ところが中国のほうは、たとえ死んでいようが戦犯が祀られたということは、政治的にもまだ意味なり影響力があるのだと思ってしまう。

これは、面白い指摘。
確かに、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という三国志のエピソードもあるぐらいだし。

 
ここからは、「死」とは直接は関係がない話。

裸の都市ギリシャ

衝撃的な事実であるが、オリンピックはもともとは全裸で行なっていた大会だったと。
どの競技だろうと全裸。イチジクの葉なんか付けない完全なる全裸。
スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でも全裸だった。

ちなみに、女性は「女性の血は冷たい(要は冷え性)」という理由から裸ではなかったと。
これは解せないものの、興味深い都市であることには変わりない。
気温は何度ぐらいだったのだろう、冬季オリンピックは昔はなかったんだろうなとか、些末なことばかり頭に浮かんでしまう。

 
最後。トルストイの『アンナ・カレーニナ』の書き出しをメモ。

幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである

とあると。これもどこかで聞いたことがある。有名なくだりなのだろう。

 
「死」について考えるとことは、「生」について「人間」について考えること。
”人間らしい”有意義な時間だった。


サブコンテンツ