テレビを消しなさい/山本直樹著

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テレビを消しなさい 書評 感想
もちろんエロさも含めてだが、その独特の世界観と絵が好きな漫画家、山本直樹。

これは、マンガではなくエッセイ集。
各エッセイがいつ書かれたものかは正確にはわからないが、登場する物事から判断して、1990年代から2000年代の前半までと推測。

以下、心に留まった箇所。

数えてみたら24本入りのビデオテープ収納ケースが30箱、その他押入れ用収納ケースの大1箱、小4箱に無造作に詰め込んでるのも含めれば、800本近くだろうか。……内容がいったいどんなものかと眺めれば「おれたちひょうきん族」とか「第6回タモリのイタズラ大全集」とか「やるきマンマン日曜日」とか「オールナイトフジ感動の最終回」とか……大半は心ある人たちから「こげなもの」と吐き捨てられそうなもんばっかりです。だって好きなんだもの。バラエティ番組ってスペシャル以外は再放送やらないし

相当なテレビ好き、バラエティ好きということが伝わってくる。
しかも溜めてしまう方のようで。

「おれたちひょうきん族」級の番組が今やっていたら、きっとDVD化されるだろうが、この流れができたのは、ダウンダウンのガキ使以降のことだろう。しかも、ハプニング系やクレームがついたシーンはDVDではカットされそうだし。

「ひょうきん族」弟版といった「ひょうきん予備校」で山田邦子がゲスト講師の時「何かあと質問は?」と言う山田に「多い日なんかどうしてるんですか?」という鋭いボケをかましていたのが当時まだ(関東では)無名だった松本人志だったり

昔のビデオを見返すとこういった拾いものがあると。

「第6回タモリのイタズラ大全集」で山瀬まみが大竹まことに服をはぎとられ、山瀬まみは泣き叫び、ブーイングの嵐に怒った大竹がセットをブチ壊した末退場するシーンは何回見てもスリリング

確かに、当時の大竹まこと氏なら、ぜんぜんやりそう。
と、YouTubeで調べたら、「行列ができる法律相談所」で過去の映像として、その番組のシーンが放送されていた。


この後、20年間、大竹まことが日テレから出禁になっていたというのは驚き。

エアチェックしたカセットテープや読んだ本や読まなかった本やボツになったコンテの束とか押入れにしまったままいまだに捨てられない。学生の頃読んだマンガなんか、面白いのだけ切り抜いて作者別に綴じたりして

いや~、激しく共感。わかるなー。
しかし、私はこの状況からだいぶ卒業しつつある。
山本さんは今も、捨てずに持っているのだろうか。

 
続いて、マンガを描くということについて。

マンガは、特にその中心のペン入れという作業は「後からいくらでもやり直しが」きかない「リアルタイム」の作業だった。…ペン入れというのはどうやら「美術」ではなく「書道」の世界……確かに、顔の輪郭を描いていてほっぺたがちょっとふくらんでしまってもホワイトでいくらでも修正がきく。……しかし、この考えには二つの落とし穴がある。一つは、どううまくホワイトを平らに塗ってもそこには凸凹が発生し、もとの平らな紙に描くような滑らかな線を描くのが難しいということ。もう一つは、いちいち全部そうやって直していたら、とても時間が足りない、ということ。

線やペンタッチの勢いが死んでしまうという問題以前に、上のような現実的な問題があると。

ペンや墨汁、スクリーントーン、ベタ塗り用の筆のペン、ホワイトを捨てて、マッキントッシュ(この表現に時代を感じる)で全て描くことを始めた山本さん。

作業としては、マウスと、タブレットという入力装置を併用する。タブレットという台の上でペン状のものをなぞると、その描いたままが入力され、ディスプレイ画面に表示される。……主要登場人物の顔はデータベースに入れて整理しておき、お望みのアングルの顔をコピーしては画面に貼り付け、その場に合うように目線や表情などを多少直します。後はアシスタントが描いてスキャナーで読み込んだ背景を組み合わせて、ベタやアミ点もマウスでワンタッチ。

自分が、今後マンガを描くことなんてないだろうが、こういう話を聞くのは、わくわくしてよろしい。なお、自分の理解のために書いておくが、ベタとは原稿中の指定された範囲を黒で塗り潰すこと。アミ点とはグレイスケールやカラーの画像を限られた色数の小さな点のパターンで表すことで印刷可能にしたもの。

こう書くとウソみたいに楽々とマンガを描いているように見えるでしょうが、実際やってみるとかなり面倒くさい。時間だけでいうと、多分普通に描くより時間がかかってます。「いくらでもやり直しがきく」というのも、逆に落とし穴になっています。

とにもかくにも、山本さんは、できるだけ楽に、最後まで自分一人で全部描くためにマックを使い出したんだとか。

中間色の灰色もない白と黒1ビットだけで作られている日本のマンガは、絵と文字を使って最もコンパクトな情報量で物語る、最小の情報量の器に最大の情報量を乗せるという、かなりすごいメディアだったのではないか

 
話しはガラっと変わって、マンガで静寂を表わす「シーーーン」という表現について。

音がないときに聞こえる「シーン」というのはどんな音でしょう。ここで考えつくのは「雑音」です。音が何もないときに聞こえてくる音。今でいうとエアコンの音や蛍光燈、テレビの発する高周波音など。でも「森閑」という言葉が発明された時代にはテレビも蛍光燈もエアコンもない。試しに風呂場に行って電気を消し、聴覚に集中してみると確かに「キーン」とも「シーン」ともつかないかすかな耳鳴りが聞こえてきます。「しん」の起源はこの耳鳴り音なのでしょうか。こう考えると、人間は完全な暗闇を見ることができないのと同じく、完全な無音というのも体験できないようだ

 
さらに話は飛び…

やっぱりテレビで見ていたいのは、ダウンタウンの辛口トークと他人の不幸

ズバリ言ってくれてる。当時のダウンタウンの切れ味は半端なかったし。
そして、話は当時世間を賑わせていたオウムの話に。

あんなグレート義太夫みたいなヒゲオヤジの、どこがそんなにいいんだろう?

まあ、そう思いますわな。

あの人たちの親や先生は何かを盲信することの恐ろしさをちゃんと教えなかったのか? 日本史の先生たちはイイクニツクロウ鎌倉幕府とかナクヨウグイス平安京とか暗記させるのに時間をくいすぎて、太平洋戦争の大政翼賛会とか鬼畜米英とか南京大虐殺とか教える前に三学期が終ってしまったんだろうか

歴史から何かを学ぶために歴史を勉強しているのに、学校の歴史の授業は暗記させるだけなんだよな、結局。
だから、仮に南京大虐殺を教えていたとしても、年号やら登場人物やらを暗記するだけなんだろう。

彼らの親たちは何かを盲信することの恐ろしさをまのあたりにして、はたから見た気持ち悪さだけを学んで「盲信することの気持ち良さ」を学ぶ機会を持たなかったんじゃないだろうか? 盲信することの気持ち良さを知らないから、親には盲信する子供の気持ちがわからない。

この指摘は、なるほどと思った。
盲信しない人は、盲信する人の気持ちが理解できない。

 
伴一彦という脚本家の書くコメディドラマが大好きだったという話。

「パパはニュースキャスター」や「パパは年中苦労する」、その前の「うちの子にかぎって」「子供が見てるデショ」といった一連の田村正和主演の子供もの、中山美穂が一人で双子姉妹役を頑張り、工藤静香の今では考えられないボケ役が光った「おヒマなら来てよね」など、子供とか、家族や親子の関係とかの話を書かせると抜群だった

自分も、「うちの子にかぎって」が好きだったので、この感覚はよくわかる。
他のも、今見れるなら、見てみたいものだ。

マンガ「あさってダンス」のあとがきで。

スエキチ君の部屋は東松原の友人の部屋を写真でとってそのまま使った。その部屋はその後「Tokyo Style」という本にも紹介されていた。よくよくメディア露出度の高い部屋だ。当時スピリッツの取材について行って「たま」の人たちにお会いしたとき、柳原さんが「あの劇場”タイニイ・アリス”でしょ」と言ってくださった。ずばりそう。

このマンガ自体は読んだ記憶はあるが、さほど印象には残っていない。
しかし、このあとがきに出て来る「東松原」「Tokyo Style」というキーワードに反応。
「タイニイ・アリス」も現在は閉館してしまっているようだが、昔一度だけ芝居を観に行ったこともあるし

日々野綾の自宅は一応青梅線近辺という設定だった。……青梅線と設定したはいいものの手元に写真がなかったのでその辺にあった世田谷の写真その他で結局お茶をにごした。福生の駅前だけは工藤静香の写真集に出てたので、パクった。

青梅線も比較的、自分は縁がある。
そして、工藤静香が福生近辺の育ちだということも知っている。
昔ファンだったから。
なお、山本さんは、マンガに出てくる風景は、基本的に自分で撮った写真をそのまま使っていると。といいつつ、ちょいちょいパクってることを告白してくるのが面白い。

 
大江健三郎について。

冗長のようで実はその全部に無駄がないというか、スキがなさ過ぎるというか、そこがサラサラした物に慣れてる人にはとっつきにくいのだろうな。読書ガイド風にいえば「空の怪物アグイー」「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」などの短編集で「濃さ」になれた後に長編に読み進むのがおすすめ。

あらためて考えてみると、自分も大江健三郎の作品は読んだことがない。
トライしてみたい。

 
40歳を迎えて。

人の人生を10年で区切ることに何の意味があるのかという思いもあるが、10本指人間の住む10進法世界の中で暮らす以上、気にならざるを得ないのもまた事実だ。

この理由で気になっているわけではないと思うが、、、まあ気になるよね、その時は。

 
最後に、別冊で差し込まれていた、内田春菊との対談で、内田さんが小説とマンガの違いについて話している。

小説に比べると、マンガって描く視点がどこか「神様」みたいになっちゃうところがない? 絵に描けばとりあえず見てきたみたいだし、描いている本人が何もかもわかっている気になっちゃうじゃない。……本当はわかってないこととか多いのに、マンガにしちゃうとわかった気がしちゃう。

マンガ家ならではの指摘で面白い。

 
CDのジャケットや本の表紙のイラストの仕事がいくつか本の中で紹介されていた。
そういえば、本谷有希子の舞台「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」のイラストも手掛けていたことを思い出した。

ネットで見つけられたイラストをいくつか。
まぼろしの郊外
宮台真司「まぼろしの郊外」

itohukigen
伊藤比呂美「伊藤ふきげん製作所」

thermo
thermo「touring inferno」

mainitiha
森博嗣「毎日は笑わない工学博士たち」

壮観である。
 
エッセイといえども、山本さんならではのマッタリとした夢のような空気感が流れている。時々ウンチクが差し込まれるところも含めて山本ワールドここにあり。


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