アジア発、東へ西へ/岸本葉子著

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アジア発、東へ西へ

はじめて触れた作家。

当然かもしれないが、宮本輝や椎名誠らと比べると表現力や感受性に差はあるものの、この作者が自分の足で行っている場所がユニークで、またそこで出会っている人々も変わっていて、興味深く読むことができた。

それぞれの国へ旅した年代は正確にはわからないが、80年代の後半から98年頃にかけての話のよう。

以下、気に留まった箇所を列挙。

まずは、インドネシア。ジャカルタの人材開発会社のオフィスにて、バタム島へ渡る女子労働者の壮行会にて、労働省の役人のスピーチから。

あなたがたが働くのは外国企業だが、製品はインドネシア製だ。あなたがたひとりひとりのネジの回し方、ハンダづけのし方に、この国の工業化の行方はかかっている。どうか、バタム島での労働において、パンチャシラの精神を実現してほしい。

パンチャシラ(Pancasila)とは、インドネシアの建国五原則、民族主義、国際主義、民主主義、社会主義、そして神への信仰のこと。国のプロジェクトだから役人が来ているわけだが、その鼓舞のし方にせつないものを感じる。

 
続いて、モンゴル。

羊を殺すとき、モンゴル族はいきなり刀を振るうのではない。胸もとを少し切り、腕をさし入れ、血管をひねって息の根を止めるそうだ。血は血で一滴残さずとって、腸詰めにし、ゆでて食べる。骨や蹄以外は、ほんとうにあますところなく食べつくすのだ。屠りの血で、地面を汚すことはない。

この点においては、イスラム世界との違いはありそうだ。

包は移動となると、十数分でたためるという。彼らの住まいは、穴というものを掘らない。去ってしまえば、彼らがそこで生きた跡さえ、なくなる。

穴を掘らないという事実自体は知っていたが、何も残らない残さないという生き方をあらためて考えると、遊牧民族の特殊性を感じざるをえない。

 
そして、サハリン(樺太)の日本人妻を訪ねて。この章はかなり面白かった。

サハリンにいる朝鮮人は、おおざっぱに三つに分けられる。
1.戦争がはじまるよりはるか前、親の代に樺太に移り住み、本人は樺太で生まれた人。子どもの頃から日本名で、日本人と同じ学校に通っていた。
2.戦争中、徴用で強制的に連れてこられた人。
3.戦後、北朝鮮から募集で来た人。

終戦し、ソ連の支配下におかれて間もなく、身分証明書が交付されたが、戦前から残っていた朝鮮人、日本人は、国籍欄が「無国籍」となっていた。…1950年代に入ってから、職場などで、無国籍の人はソ連籍を取得するよう、少しずつ言われはじめる。

しかし、ソ連籍にするためには300ルーブルを出せと、要はワイロを要求されたという。

同じ頃、北朝鮮の方からも、北朝鮮国籍を取るようにとの宣伝がさかんになった。ナホトカの領事館の人がわざわざサハリンに出向いてきて、しきれいにふれ回る。

当時は、朝鮮半島が南北に分断されたばかりの頃で、いずれサハリンから韓国へ行ける日が来るとは誰も思わず、それでも北朝鮮の国籍をとっておけば、朝鮮半島の地はいつか踏めるのではないかと思い、北朝鮮国籍をとるものも多かったという。

その後、韓国へ一時帰国できるようになると、慌てて「無国籍」をとりなおす人もいた。

パスポートなんて、国籍を証明するだけのものだとばかり思っていたが、「無国籍」のパスポートなるものは、「ソ連に住む無国籍者であることを証明する」ものであるらしい。外側は「ソ連パスポート」だが、中に「無国籍」とあり、日本に行って帰ってくる、すなわちソ連に再入国するのには、日本とソ連、両方のビザが必要となる。

ずいぶん日本人女性を訪ねたが、どの家でも、何かしら日本に関係したものが飾ってあった。キャラメルやチョコレートの箱、ラーメンの袋。子どもたちや孫は、日本の字は読めないが、色がきれいだといって観賞するそうだ。そんなふうに、どこかで日本とつながりながら、箸の置き方はどの家でも縦であったことに、朝鮮人の妻として重ねた年月を感じてしまう。

日本人が欧米などの商品パッケージに憧れをいだくようなものだろう。
食卓の箸が盾に置かれるか、横に置かれるかで、朝鮮か日本かがわかると。

ところで、1945年8月17日、樺太では終戦後もソ連軍の進軍が続き、家財などがソ連軍にとられるのは嫌ということで、逃げる際にそれぞれが家に火を放ったという。

樺太からはやや離れるが、1980年当時、ソ連国内で高級取りの島として知られていた色丹島。

色丹の人口は、軍の関係者を除いて七千人。うち、男性はほとんどが漁業加工コンビナートに勤める。給料は国内平均の2.5倍から2.8倍だった。


続いて、ソ連崩壊後のロシア。

7月、ネバ川にあるペトロパブロフスク要塞の下の川岸では、人々が夏のさかりを楽しんでいる。若い女性の水着のはでさには、目を白黒させるばかりで、ハイレグのビキニ。腰のところはほとんど紐一本だ。そのかっこうで、ボール遊びやバドミントンに興じて飛んだり跳ねたり、川を行く遊覧船に向かって手を振ってみたりする。… なんと言うか、社会主義のイメージとは裏腹に、とても明るく開放的なのである。革命前の歴史をひもといても、ロシアには農奴制とか、とかく暗いイメージがつきまとうけれど、もともとはあっけらかんとしていると言うか、それだけに、どっちにも転びやすい人たちなのかもしれない。

広場で男が、段ボールの上に三つのコップをふせて置き、しきりに位置を入れ替えながら、どのコップに玉が入っているか賭けさせていた。

男が儲かるようにしかできていないのは、わかりきっているのに、どうして出してしまうのか。まるで、コップの動きによって集団で催眠術にかけられたかのように。この街の人は概しておっとりしているが、それだけに、何にでもつけ込まれそうな、危うさを感じてしまう。

要は、見た目は白人で背も高くてクールに見えるが、ソ連配下で時が止まっていたこともあり、人々の中身が洗練されていないのだろう。そこにアンバランスさがありそう。

ロシア人はすごくアイスクリームが好きという記述もあったが、それも発展途上にあることの表れのような気がする。

私のいた七月は、ちょうど、革命以前のサンクト・ペテルブルグに戻すかどうかの議論がさかんだった。… 私のいたときの投票も、賛否はほぼ半数ずつだった。賛成は若い人に多かった。

第二次世界大戦でレニングラードをドイツから守った年輩の世代の人たちにとっては、「レニングラード」という名前は特別だったようだ。

 
スコットランドのウイスキー工場を訪ねるツアーに参加して。

日本でよくやる水割りは、スコットランドではみかけない。ストレートで。あるいはウイスキーと同量か、少ないくらいの水を加える。水は冷たくしない。氷も入れない。そして、かき混ぜないこと。タンブラーごとゆっくりと揺らす。それが、ウイスキーの香りをもっともよく味わう飲み方だそうだ。

お酒は全般的に好きだが、ウイスキーは苦手だったりする。
美味しいウイスキーを、この飲み方でぜひ味わってみたい。

 
オランダ。「ヨーロッパの十字路」と言われる都市、マーストリヒト。

チーズの種類の多いこと。… この街の食料品店の品揃えは、首都のアムステルダムの比ではない。… はっきり言って、料理と呼べるようなものがあまりないオランダを旅してくると、南のはしのこの街でようやく旨いものに出会えた感じだ。… プロテスタントとカトリックの違いなのだろうか。オランダ中、この街だけが、ワインを産する。

10年以上前に一度だけマーストリヒトを訪ねたことがあるが、ここまで強い印象はなかった。
アムステルダム自体も嫌いではないので、機会があればまたオランダは訪れてみたい国だ。

 
インドのブジュという小さな町で。昔ながらの絞り染めを作っているという女性。その技術はいつ頃から伝えられているものなのかを問うと、自分の母も祖母もやっていたからやっているのであって、よくわからないと。「絞りの名人」と知られているのも

私が特別うまいからではなくて、他の人たちが、みんなやめてしまったのよ

と。

 
最後に、ブータンにて。

父親たちは畑から上がってきたゴム長そのままで出入りする。そのゴム長は牛や馬の糞を必ずや踏んでいるはずなのだ。何たって、そこいらじゅうに落ちているのだから。同じ床を、まだ歩けるか歩けないかくらいの子どもが這い回り、その手を口にもっていったり、鍋や釜にさわろうとしては母親に叱られている。… 床の片隅には、黒ずんでもとの色がわからなくなった布団が丸めてあり、(今夜はこおで、この布団で寝るのか)と身の引きしまる思いがした。そうなのだ、「ヒマラヤの中の桃源郷」などと勝手にイメージしていたが、考えてみれば、つい十年前まで平均寿命が四十五歳だったという、世界でも貧しい国のひとつなのだ。… 果たして夜、腹具合がおかしくなり、ガイドに導かれ、家の裏のトイレに懐中電灯を持ってしゃがみ込む次第となったのだ

筆者のひきしまる思いが伝わってくる。

が、パロのホテルに戻ってみると、あの農家での一泊が妙になつかしい。… この雰囲気を味わえただけでも、農家に泊まってよかったと思った。

そう。旅の良さはどこに転がっているわからない。


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