彼らの流儀/沢木耕太郎著

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kareranoryuugi

沢木耕太郎氏のエッセイは、いつ読んでも、どれを読んでも、安心して読める。

本作は、様々な人の「流儀」にまつわる、33編からなるエッセイ。

毎度のことながら、沢木氏の文章が醸し出すペーソスに触れつつ、登場人物の様々な人生から感じるところも少なくなく、読書を楽しむことができた。

以下、心に留まった箇所をあげていく。

 
最初は、「サエラ」という傘ブランドを立ち上げた方の話。

「梅雨にはたくさん雨が降ってほしい?」

私が訊ねると、彼が答える。

「それは、もちろん」

「売れるから?」

「いえ、それは大したことはないんです。商品を作るのには二か月くらいはかかるんで、いくら降っても間に合わないんです」

では、なぜ降ってほしいのか、と問うと。

人が傘を差しているのを見るのが好きなんです

との答え。

あらためて「雨」について考えてみても、雨が降って人が傘をさしていると、道が歩きにくくて嫌だなと思う程度の面白みのない貧相な感受性しか、自分は持ち合わせていない。

商売という理由からではなくて、単純に人が傘を差しているのを見るのが好きという発想が、完全に想像の範疇外にあり、新鮮に感じた。

僕は傘屋で幸せです。雨が降れば嬉しいし、晴れ上がれば気持がいいし、どんな天気でも楽しく過ごせますから

こういう人間でありたいものだ。

 
 
発展途上国を支援する「風の学校」を作った中田正一氏。

技術協力というものは相手の国の実情に見合ったものでなければ決して根づくことがない…… たとえば、援助によって立派な機械が贈られる。しかし、一、二年もすると、打ち捨てられ、雨ざらしにされたままになってしまう。それも当然なのだ。故障をしても修理をする部品がないのだから。そして、その部品を買う金すらないのだから。間違っているのは、その程度のことすら考えないで「援助」をする方なのだ。そういった土地に必要なのは、金ではなく人であり、物であるより技術である。しかも、その技術というものも、その土地にある物を利用し、その土地の人が習得できるものでなくてはならない。

途上国に必要なものは、モノより技術とはよく聞くが、当たり前ながら、現地での継続性がなければ意味がないのだ。

「風の学校」では手掘りの井戸掘り技術を開発したが、それは彼らが井戸掘りの素人だったからだろうと著者は言う。

玄人はまず不可能な点を数え上げるが、素人は可能なことしか知ろうとしない

身につまされる話だ。

地雷が埋まっているアフガニスタンの地で、中田氏はおっかなびっくり歩く現地の人を先導するほど、地雷を踏まないという奇妙な自信を持っていた。悔いの人生を送ってきたので、たとえその場で死んでも悲しまなければならないことはほとんどなかった。

中田氏は言う

そうした突然の死は、畳の上の死より、よほど具合がよさそうだったものですからね

これはよくわかる。が、即死できる保証もないわけだが。

筆者が、ベルリン五輪に出場して5,000mと10,000mで健闘した村社講平(むらこそこうへい)氏に日記をみせてもらって。

彼に見せてもらった日記には、現役引退後も、その日走った距離の総計が一日も欠かさず書き記されてあった。走行距離の一覧表一枚で生きてきた道筋が表現できる、その簡潔で、確かな人生に、私はほとんど打ちのめされたといってよかった。

筆者と同じ心境になった自分も、軽くうちのめされた。
この感覚を持っていることこそ、沢木耕太郎の強みだと思う。

 
 
ニューヨークで警察官を務めた男の話。

ニューヨークはジューヨークといわれるくらいユダヤ人が多い。それは数の問題である以上に、さまざまな力がユダヤ人に集中しているというところからきているんだ。ニューヨークは間違いなくユダヤ人によって動かされている。

よく、世界の金融はユダヤ人によって動かされていると聞いていたが、ニューヨークもそうなのか。

ニューヨークは人種の坩堝だといわれる。…… 実際には人種は少しも溶け合ってなんかいない。最近はますますその傾向が強くなっている。そして、ニューヨークの警察官は、溶け合えないそれぞれの人種のコミュニティーに支えられることで初めて存在できるという側面がある…… でも、ニューヨークには、日本人はいても日本のコミュニティーは存在していなかった

これは興味深い。日本人は、異国の地において、助け合おうとする意識が低い国民性なのだろうか。

犯罪者が日本人を狙うのは、どんなことをやっても、裏の世界でも表の世界でも決して報復されないことを知っているからだ

助け合わない国民性。ある意味紳士的であり、ある意味弱腰な姿勢に原因があるのだろう。

このアメリカで、自分の生き方のスタイルを損なうことは死ぬことと同じだ

そう彼は思う。アメリカという国が彼にそう思わせているといよりも、異国の地で、踏ん張って生きている人間ならではの湧き上がってくる考えだろう。

 
 
ペットショップというビジネスについて。

小さな店ではペットの売買による収入は全体の二、三割にすぎず、残りの大半はトリミングによって得られる

また、一時期はうまみのあったペットショップビジネスだが、競合の数が増え飽和状態に達しているうえ、トリマーの人材が不足しており、うまみがなくなってきているという。

 
 
東京タワーの最上部にあるライトの交換などの、鉄塔のメンテナンスを行なう部署の方の話。

東京タワーの場合、登るのは放送を終えた深夜です。それは強い電波が出ていると危険だからです。もちろん、弱いものでも危険性はあります。たとえば、弱いものでも、電波が出ているアンテナを掴むと、手のひらは何でもないのに、中の骨がジーンと焼けるように熱くなる。それを私たちは「高周波焼け」と呼んでいます。

夜の作業は、冬の時期など寒くて大変ですが、恐怖心は昼より少ないようです。夜でも下界の街の灯は見えますが、地平線のかなたまで見えるような昼間とは恐ろしさの度合いが違います。中には、登ったまま足がすくんで降りられなくなってしまう人がいます。そんな場合には、すぐ真下について一緒に一段ずつ降りてあげます。自分の下に誰かがいると恐怖は薄らぐらしいんですね。

自分の下に誰かがいると恐怖は薄らぐ」というのは知らなかった。チャンスがあれば生かしてみたい。

鉄塔に登る時は、いろいろ気をつけなくてはならないことがありますが、その第一が小便です。いちど上にあがったら何時間も降りられない。そこで、登る前は水分を節制するようにします。しかし、それでも寒いとしたくなってくる。だからビニール袋が必需品なんです。上からじかにやってもわからないだろうと言われたりしますが、これが不思議なことに尿は霧になって散ってくれないんです。粒になって落ちてしまう。それでそのままやるわけにはいかないんです。

なんかの役には立たないかもしれないが、「トリヴィア」的知識として。

 
 
東京を離れ、北海道の積丹半島で先生をしている女性の話。

こっちでは冬になると窓に板を打ち付けるんです。屋根から雪が落ちるときにひさしの氷柱がガラスを割ったり、積もった雪に圧しつぶされたりするのを防ぐためだそうです。だから朝になっても家の中は暗いんです

豪雪地帯は、みんなそういうものなのだろうか。

いつもは毎日毎日のことに追われてそんなことは思わないんですけど、ふと我に返ると、やっぱり本当に北海道にいるんですよね。それが、なんだか、とても不思議なんです

長く住んでいた場所から、まったく違う場所に移り住んでしばらくは、こういうことを思うものだろう。この感覚はよくわかる。

 
 
アラビア語の書道について。

そこに文字があれば必ず美を追求するものとしての書が存在することになる。…… アラビア文字も、中東や北アフリカの各地域で使われているうちに、「ハット・アラブ」、つまり「アラビア語書道」を専門とする書家によって洗練の手が加えられ、七つの代表的な書体が生み出されることになった。

もともとアラビア語書道は、「コーラン」の章句をいかに描くかというところから発達したと考えられている。

アラビア語書道は筆を自分で作るところから始める。中国や日本と違って毛筆を使わず、竹や葦を斜めに切り落とし、先端をヤスリなどで削ったものに墨をつけて書いていくのだ。紙は滲みを嫌うために表面がつるつるしたものを選ぶ。かつてはそうして上質紙がなかったため、表面に卵白を塗り、瑪瑙で磨いて用いたという。

 
 
鬱で自殺してしまった、ヨットマン多田雄幸(ただゆうこう)氏について。

多田さんは、…… 「頂に登る」のではなく「麓で遊ぶ」ことの楽しさを身をもって教えてくれる存在でした。多田さんこそは、生きることの達人、のはずだったのです。

「頂に登れる」人はごくわずか。だからそこ、「麓で遊ぶ」ことを楽しめるほうが、一般的には大事なはずだ。
それを筆者は、「生きることの達人」と表現している。

 
 
これは、おそらく著者自身の話。

彼がバスに乗り込んだ時、席はまだ二つ、三つ空いていたが、あえて座らなかった。座ったあとで、席を譲らなければならなくなるのがいやだったからだ。譲ることがいやなのではなかった。譲るべきかどうか悩まなくてはならないこと、席を立っても相手が素直に座ってくれずバツの悪い思いをすること、さらに自分が譲ることでその近辺に座っている人たちに小さな罪悪感を覚えさせてしまうことがいやだったのだ。

ここまで考えて座らない人がいるんだ!?と驚きとともに苦笑してしまった。

 
 
戦前、有楽というハイヤー会社に勤めていた男性の話。

タクシーはフォードかシボレーと相場が決まっていましたけど、ハイヤーはパッカード、クライスラー、ハドソン、ナッシュなんていう車を使ってました。パッカードには中じきりがあって、スペアー・シートを出すとうしろの座席に五人も座れたものです。

戦前は、ハイヤーどころか、タクシーも国産じゃないことに驚き。
調べてみると、トヨタの生産型乗用車「トヨダ・AA型乗用車」が1936年に生産されはじめたばかりで、戦前の時点ではまだまだ産業として成り立っていなかったのだ。
ホンダの生産開始は戦後になってから。

戦時中は陸軍に徴用されて、板橋の兵器補給所でやはり運転手をさせられました。偉い人を送り迎えする車も、物資の節約のために木炭車なんかを使っていましたが、シンガポールが陥落すると、イギリス軍のロールスロイスだのなんだのという素晴らしい車が押収されてきました。…… 私たちはそれを各宮家に献上しにあがったものです。私も極上の一台を運転して高輪の北白川宮家にうかがいました。

 
 
筆者には、学生時代にデパートの特選売り場(今で言う催事場のことだろうか?)でネクタイの販売員のアルバイトをしていたときに、オレンジとグリーンとゴールドという配色の、ネクタイに惹かれたが、自分では買えなかった思い出があるという。それから10年以上の時がたち、紳士服売り場で、似たようなデザインのネクタイと出会う。

一瞬、買ってみようかなと思ったが、すぐにバカなと思い返した。こんな派手なネクタイを会社にしていくわけにはいかないし、これをしめて遊びに行くような場所も知らない。そして、そこを二、三歩はなれかけたとき、彼は最前のうずきとは比べものにならないくらいの深い物哀しさに襲われた。自分が、あのオレンジとグリーンとゴールドのネクタイの前に広がっていた人生の可能性の、ほんの一部しか生きてこなかったことを思い知らされたような気がしたからだ。

これこそ、沢木耕太郎の真骨頂だろう。
本当に、彼はその時こう思ったのだろうか。本当だとしたら、格好良いというか、文学的というか。
人生の可能性の、ほんの一部しか生きてこなかった」。誰しもそうだろうとは思うが、自分に置き換えて考えても、愕然とさせられる。

 
 
母親と胎児の間の臍の緒の話。

動脈が二本に静脈が一本。一本の動脈は母親から栄養分をもらう。一本の静脈は老廃物を母親に送り返す。しかし、臍の緒にはもう一本動脈が走っていて、そこは神様が胎児に贈り物を送り込むところになっているんだよ

嘘か本当かわからないが、素敵な話。

 
 
50歳の時に脊椎を骨折して下半身不随になり31年間を病院ですごしてきた男性を見舞って。

「君に頼みがあるんだけどな」
なんなりと、と私は答えた。
「僕に必要なのは、本と人だ。本は持って来てくれるし、見舞いも他の人に比べれば来てもらえる方かもしれない。だけど、残念ながらひとつ足りないものがある」
「何ですか」
「女だよ」
「女、ですか」
「以前は車椅子で女の子とフランス料理屋なんかに行ったりすることもあったんだけど、最近はそれもできなくなってね。だから、女の子と話がしたい」
「話すだけですか」
「当たり前だよ。だから、活きのいい、話の面白い女の子がいい。」

これを読んで、自分の死んだ父親を思い出した。

彼もまた、本と人を必要としていた。
自分は頼まれなかったが、俗っぽい人間だったから、女の子とも話したかったろう。
連れていってあげなかったことを、後悔した。

そして、仮に今連れていってあげられるとしたら、誰を連れていくだろうと考えた。
「活きのいい、話の面白い女の子」。そんなにはいないよな。
あの子か、あの子だろうな。

 
 
一遍一遍は短いから、それぞれの話の印象は薄いが、そこかしこに沢木氏の感性が溢れているのは、その他の作品と変わるところはない。


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