模倣犯/宮部みゆき著

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模倣犯(上)

上下合わせて1,400ページを超す、圧倒的なボリューム。
読み終わって強く思うのは、救いがあるラストで良かったということ。

どっぷりとこの世界の中に入りきって、打ちのめすだけ打ちのめす終わり方だったら、精神的につらかったと思う。やはり映画以上に、人を捉えて離さない強さが本にはあることを痛感した。

以下、かなりの量になるが、気に留まった箇所を列挙する。

 

1年間で人が家出したり行方不明になったりする数は約8万2千人。このうち、不審な失踪で、何らかの犯罪に巻き込まれた可能性も考えられるケース、これを特異家出人というが、1万5千人ほど。そのうち女性が約6300人。

有馬義男とその娘の真智子は、この数字の多さに安心する。公園で発見された右腕が、自分らの孫や娘である確率は6300分の1なのだと。

そもそもこれは1年間の数字だし、実際は家出として届けられていない人も数多くいるだろうから、その確率はもっともっと低いはずだ。

そういえば、最近は「蒸発」って言い方をしなくなった。それは失踪が当たり前のことになってしまったからだろうか。

これは昔からのデータを見てみないと… と調べて見た。

まず、上に書いてある年間の家出捜索願の数。本作品の連載開始は平成7年だが、その前年の平成6年(1994年)を見ると82,287人となっており本の通りだった。ちなみに、それから20年後の平成26年(2014年)を見ると81,193人とさほど変わっていない。

時代をさかのぼってみると、昭和40年(1965年)が91,593人、昭和50年(1975年)が91,845人、昭和60年が96,753人となっており、むしろ捜索願の届けられる数は平成以降減っていることがわかる。だから、少なくとも数字上は「失踪が当たり前のことになっている」わけではないのだ。

一つ気になったのが特異家出人の数。同じく平成6年の数字を見ると本にある通り14,799人(内、女性6,326人)なのだが、そこから7年後の平成13年(2001年)が27.496人(内、女性12,114人)、平成26年(2014年)が48,128人(内、女性18,683人)と、全体の家出捜索願は減っているのに、特異家出人は増えている。これはいったいなぜなんだろう。

家族が心配し過ぎ? 凶悪犯罪の増加? 自殺者の増加?…… いずれ調べて見よう。

首を吊って意識が飛びかけるくらいの状態で自慰をすると気持ちがいい。この隠れた趣味に浸っていて、うっかり首が強く締まりすぎてしまい、事故死するという例は少なくない。

これは男性だけに当て嵌まることだと。へー。

 

ボイスチェンジャーは、耳で聞いたときの声を変えるだけで、声紋そのものを変えることができるわけではない。

これは知らなかった。本書の中でも、これはそこそこ重要な事実として使われている。

 
有馬義男が、孫娘はもう殺されていることを確信するシーン。

鞠子はもう死んでるんだな。今までだって、九十パーセントくらいは諦めていた。でも、残りの十パーセントの望みを繋いでいた。刑事たちも、鞠子が生きて犯人の元に捕らえられている可能性はあると言っていた。でも、その希望はもうない。鞠子は死んでいる。間違いない。確信がこみあげてきた。
 
今日、義男はあいつをずいぶん怒らせた。その仕返しに、あいつが義男をいじめて楽しむつもりなら、今、どうすればいちばん効果があるか、よくわかっているはずだ。鞠子の声を聞かせ、鞠子に「おじいちゃん、助けて」と叫ばせるーそれがいちばん効き目がある。
 
あいつはそれをしなかった。即座にはねつけた。いついつならいいとか、これこれをすれば声を聞かせてやるとか、そういうことを匂わせることもしなkった。かわりに、義男を言葉で侮辱しただけだった。
鞠子はもう死んでいる。鞠子はもう奴の手の届かないところにいる。それだけはよくわかったと、義男はぼんやり考えていた。

悲しい話を理性的な視点から分析する。本書では、豆腐屋の大将であり、被害者のお爺ちゃんである有馬義男が重要な役割を果たしている。

彼の立ち振る舞いが、他の登場人物や読者の心を時に鼓舞し、時に落ち着かせる。
そして、彼の感情が動くと、こちらの感情も動く。

 
刑事が、有馬義男に接して。

ごく普通の人のごく普通の言葉、態度、生き方の存りように、いずまいを正さずにはいられないような気持ちになることもある。

わかる。

 
真一の言葉。

この事件の犯人、いつかは捕まるのだろうか。捕まってほしい。でも捕まったときには、きっとまた、こいつをかばう人たちが登場するのだろう。犯人もまた、社会の犠牲者だと。… この世に満ち溢れているのは、みんな犠牲者ばっかりだ。それならば、本当に闘うべき「敵」は、いったいどこにいるのだろう。

青臭くもあるが、真理も含んでいそう。美意識が欠如して、すぐに「犠牲者」の立場に逃げたくなるのだろうか。

 

どちらがより迅速に、効果的に、言いたいことを言いたいように言い、それをどれだけ広く報道してもらい、社会に信じてもらえるか。… 皆、無意識のうちに知っている。宣伝こそが善悪を決め、正邪を決め、神と悪魔を分けるのだと。法や道徳規範は、その外側でうろちょろするしかない。

こればかりではないが、こういう側面が存在するということは厳然たる事実だろう。

 
本書の大きなテーマの一つである「英雄願望」について。

犯罪者に限らず、ある種の事件を起こし易いタイプの人間をして事件の方向へ向かわしめるのは、激情でも我執でも金銭欲でもない。英雄願望だ。… 酔っぱらって喧嘩の挙句他人を殴り殺してしまうのも、クラクションを鳴らされたというだけで後続車の運転手を刺殺してしまうのも、車両内での喫煙をとがめられたというだけで、相手をホームに引きずり降ろし線路に突き落としてしまうのも、すべては英雄願望のためだ。自分は英雄だ、ほかの連中とは違う… その俺様に向かって注意をするとは何事だ、盾つくのは生意気だ

これにはハっとさせられた。自分も気をつけないと。
それにしても、著者はこういった畳みかけ方が超絶上手い。

 

転勤の多い仕事に就いている父親をもっているというだけで、栗橋浩美にとって、ピースは充分に尊敬に値する友達だった。ある年代までの子供たち-とりわけ男の子にとっては、父親の仕事がその子本人の価値をも決定づけるだけの意味を持つものだからだ。

こういった、「男の子にとっては、父親の仕事がその子本人の価値をも決定づけるだけの意味を持つ」のような、一般的な真理を、さらっと挟んでくるところがニクい。

 
栗橋浩美のガールフレンドで、被害者の一人でもある岸田明美絡みで。

「男」の怖さは、男の本質の一部でもあり、だから彼女が愛してやまない男たちの優しさや頼もしさや女への甘さと表裏一体になっている。

わかるような、わからないような。

岸田明美はひどい疲労感を覚えた。霞んだ顔と顔をあわせながら、うちに帰りたいと思った。それも東京の独り暮らしのマンションではなく、川越の実家へ。急に里心がついて、パパやママの顔が見たくなった。これもまた本能の放つ警告だった。パパとママを思うのは、彼女が子供のように力弱い存在になっている証拠だ。

「本能の放つ警告」。短くもズバっと刺さる表現。

 
中学校という教育機関の不思議さを言い当てている。

嘉浦家の側は、「義務教育なんだから、適当にやったって絶対に卒業できる」と、たかをくくっており、学校側には、「義務教育はこんな生徒まで引き受けなければならないんだから辛い」という嘆きがあり、それがちょうど旨い具合に釣り合ってしまって、現在の嘉浦舞衣の生活があるのだった。

中学校時代、出来の悪い子への対応は、傍から見ていても確かに不思議だった。

 
ピースが栗橋に曰く。

本当の悪は、こういうものなんだ。理由なんか無い。だから、その悪に襲われた被害者は、どうしてこんな目に遭わされるのかが判らない。納得がいかない。何故だと問いかけても、答えてはくれない。恨みがあったとか、愛情が憎しみに変わったとか、金が目当てだったとか、そういう理由があるならば、被害者の側だって、なんとか割り切りようがある。… だけど最初から根拠も理由もなかったら、ただ呆然とされるままになっているだけだ。それこそが、本物の「悪」なのだ。

「悪」って何?って考えさせられる。
一歩引いて考えると、ピース自身は、「本当の悪」をもともと抱えているのではなく、「本当の悪」に憧れているだけのようにも読み取れる。

 

嘘をつくのは易しい。難しいのは、ついた嘘を覚えておくことだ。

おっしゃるとおりで。

起こってしまった事件を、現代の事件史や風俗史のなかに納めるときに、ファイルの背表紙に貼るレッテル…分類をするのもファイルを作るのもレッテルを貼るのも、犯罪者の仕事ではない。それは、犯罪者がやったようなことは決してやらないタイプの人間が担当する作業であって、だから犯罪者は常にただ分析される側にいる … 彼らは彼らなりに自身の内面について説明する言葉や考えは持っているだろうけれど、それは必ず舌足らずであるべきで、必ず補足説明と解釈を必要とするべきもので、そもそも、だからこそ、彼らは犯罪を起こすのだ。

犯罪者側の要素を持った人が分類・分析しない限りはいつまで経っても解決しない問題のように思える。

 

火事が怖かったら、火事を消すことのプロの消防士になればいい。恐ろしいことをする犯罪者が怖かったら、そういう人びとを探して身柄を押さえる刑事になればいい。それなら、何の抵抗する術も力もなく、ただ事件や災害に襲われるだけの立場より、実はずっとずっと安心だよ。今思えば、これは一種の詭弁である。どんな災厄に対しても、やっぱり逃げて隠れるのがいちばん安全なのだ。ただ、先生の意見が核心をついていたのは、臆病者には臆病者なりの”英雄のなり方”があるというところだった。それが、それなりに多感で自己顕示欲の強くなる年頃の、臆病な少年のツボを押さえたのだった。

誰しもヒーローになりたい願望は多かれ少なかれあるのだ。

 

まともな勤め人が満員電車に揺られて会社に向かい、前夜どれほど眠るのが遅く、仕事が忙しく疲れていようとも、机につかねばならない時間帯に、電話を留守電にして眠っていたり、なんか忙しいから夜遅いんだと、午過ぎなければ仕事に出てこないようなそんな団体に、いったい”社会”の何がわかるのだろう

自分に言われているような気になった。そして、すっと心に入ってきた。

 
ピースはこの一連の犯罪をイベントとして捉えている、という本書の骨子となる部分について。

連続殺人という大がかりな見世物。観客は全国民。被害者もまた登場人物 … そうなると、被害者たちの遺族も、必然的に脇役として登場せざるを得なくなる。彼らの哀しみ、怒り、嘆きはそのまま、この舞台劇の通奏低音のひとつとなる。

「通奏低音」とは、主にバロック音楽において行われる伴奏の形態で、一般に楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて即興的に演奏すると。つまり、脇役たる被害者の家族に細かい演技指導はしないが、主役たちの動きに合わせて、調和を守りながら、即興的に芝居をすることが求められていると。

犯人-演出家がこんな芝居を始めようとしたきっかけ … 創作活動に動機は要らない … 連中はたぶん、みんな同じようなことを答えるはず…ただ、そうしたいからだ、と。

創作活動に動機は要らない。この表現にやられた。

武上の娘の法子は、武上にこう言う。

犯人は被害者たちに対して悪いことをしたなんて、これっぽっちも思っていないんじゃないかしら。もちろん遺族に対しても同じよ。あんたたちの平凡で地味な人生に、思いがけないスポットライトを当ててあげたんだよって。

そして、自分の世代と、武上たちの世代とは違った指向性があるという。

命は無条件で大切なものだとか、社会の安全は守らなければならないといった、そういうすべてのものよりも、退屈しないことの方が大切だという指向性。
 
何よりも恐ろしいのは、人生に何も起こらないこと。誰にも注目されず、何の刺激もない人生を送るくらいなら、死んだ方がましだっていう、指向性。

ここにも英雄願望の表れを示唆する内容がある。
自分のイメージだと、仲間意識、共同体意識、同調意識のほうが強いのかと思っていたが、英雄願望のほうが渦巻いているのだろうか。
ふと考えると、この歳で読んだから年下の若者達の話のような視点で考えていたが、平成6~10年頃に20代というのは、まさに自分にも当て嵌まっている同世代の話だった。それなら、なんとなく共感できる気はする。

 

”良心”などという概念をそもそも持ち合わせていないような衝動的な犯罪者の場合、連中には道徳や倫理観はなくとも、自分のやったことは非日常的な事柄であるという意識だけはあるので、-善悪には関わりなく、とにかく日常生活とは異質な事柄であるということは本能的に理解しているので-かえって自分のやったことの痕跡をごまかしたりすることに対してエネルギーを注ぐことができず、あれはなんか異次元の出来事みたいなもんだったというようなぞんざいな感性で行動する。その結果、常識を物差しに追う側にとっては、大きな手がかりとなるものを残してくれることが多い。

ピースの場合は、これに近い話かもしれない。
罪の意識も、捕まることへの恐れもなく、一見冷静に立ち振る舞わっているようだが、ところどころ慎重さもない。

 

人殺しが酷いのは、被害者を殺すだけじゃなくて…まわりの人間をも、じわじわ殺してゆくからだ。そうして腹立たしいことに、それをやるのは人殺し本人じゃない。残された者が、自分で自分を殺すんだ。こんな理不尽な話はない。

この点についても、本書の大きなテーマの1つだろう。

有馬は真一に対して、そうやって自分で自分を痛めつけて苦しんでいる真一を見ると、殺人者の娘である樋口めぐみは少しばかり救われるのだろうと、言う。
これは、最初はピンと来なかったが、自分が殺人犯の娘で絶望にあったとしたら、納得できる話だ。

 
話の構成はもちろんだが、行間を埋める人びとの感じかた、表現の仕方に心に響くもの、心を揺さぶるものがある。それが一流の作家とそれ以外の作家を分けるものなのではないだろうか。そう感じた。

最後に、「模倣犯」というタイトル。
これが良くもあり、悪くもある。


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