着想の技術/筒井康隆著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

tyakusounogijutu

確か、だいぶ昔に、父から譲り受けた本のはずである。
作家がどうやって着想を得るのかについてのエッセイ集。

今まで読んだことがないタイプの本だったが、途中、難解な箇所があり、そこは読み進めるのに苦労した。

一方で、自己分析を好む筒井氏の、夢に関する話は非常に興味深く読ませてもらった。元となる単行本が発行されたのが昭和58年。となると、実際に各エッセイが書かれたのは昭和55年前後だから、30年以上は経っていることになる。それでも今でも参考になる記述はいくつもあった。

 
ある着想を得た時、それをどう作品につなげていくか。

自己分析のできている作家は、自分がなぜその奇妙な想念にとりつかれたかを悟ることができる。そしてそのフラグメントが、自分の個人的な材料によって構成されたものであり、そのままでは感動するのが自分だけであるということを、あるいはまた普遍的なものであった場合に、誰でもが感動するものであるということを、また、非常に個人的なものであった場合に、それをいかにして普遍的なものにまで導くことができるかということなど、そうしたことすべてを考え、計算することができる。そうしたことはいかにして可能か。自己を知ることである。自己を知ることというのは、自己と他者の違いを知ることである。

これは、まあ当たり前といえば、当たり前の話である。
では、具体的に自己と他者の違いを知るために何をすればいいのか。

それを知る手がかりは、ぼくの場合、精神分析であった。空想がある程度はっきりした形象となってあらわれるのは夢である。夢を分析することによって自分の夢の中の個人的なものと普遍的なものを選別することが可能である。

筒井氏が言うに、夢を分析するためにはフロイト、ユング、(そしてできればエーリヒ・フロムとアルフレッド・アドラーも)の著作を読んでおかねばならないが、夢に関する部分はさほど多くなく読むのには苦労しないそうなので、ちょっと読んでみようかと思う。

 
ハーマン・メルヴィルの長編小説「白鯨」について。

「白鯨」ではモビイ・ディックが、最後にそれまでの疑問を解く形で出現する。……「白鯨」はやはり壮大であり、登場人物はエイハブ船長をはじめ乗組員のひとりひとりが(ユングの謂う)「原型」のイメージに近いのである。人間の行動や出来ごとも理解できぬ奇怪なものばかりである。
 
また、「白鯨」には(原像に関する)なんの説明もない。だからこそ、ユングでない読者は、この「白鯨」の解説を切実に求めるのだ。そのなんの解説もない奇怪なイメージが読者の普遍的無意識層を刺戟し、芸術家の体験した幻視の不気味さへの神秘的関与によって、居たたまれない気持を起こさせるからであろう。

 
作家にとって重要な断片(フラグメント)がどういうものかについて。

ある作家がなぜその特定の断片に興味を抱くのか……選ばれたそれらの断片はすべてその作家の精神史に深くかかわりあったものであり、その作家の快感原則に適ったものなのである。……真に重要な断片はそれが彼の創作活動とはまったく関係がない断片、及び、将来創作活動に必要になってくるかどうかがまったくわからぬ断片であり、そうしたものこそその作家が創作上の益無益を勘定に入れず興味を抱いた対象であるが故に、彼の想像力をより刺戟し、彼の無意識の働きをより活発にするのである。

緊急に必要でもないのに、浮かんでくる断片こそ、ゆくゆくの創作活動の源となると。

 
インスピレーションがどう降りて来るか。

通常インスピレーションと呼ばれている突然の着想は、いわば夢に似た形で意識に浮かびあがってくるようである。……多くは睡眠時と同じように抑圧の力が弱まり、比較的原始的な思考様式が優勢な時である。最も普遍的には疲労している時であって、これはどちらかといえば肉体的なそれよりも精神的疲労下における場合の方が多く、そしてその着想にはより重大な意味があたえられているように思う。われわれはしばしば、ひとつのことを考えつめ、くたくたに疲れ果ててしまい、考えることをあきらめ、ほっと一服したとたん、それまでいくら考えても浮かばなかった解決策に突然気づくという経験をする。

大事なのは、考えに考え抜いて、その後、一旦忘れることだと。

なお、睡眠中や疲労時と似たような状態を作り出すものとして薬(ドラッグ)があるが、ドラッグを服用することで、自我の抑圧を弱め無意識から着想を得るのであって、そもそも創造を目指していないものがいくら薬を服用しても作品の着想には到らないとのこと。

そして、筒井氏の抑圧緩和方法は、惰眠を貪ることだと。これは、「なんだよそれは!」と軽く思いがちだが、よくよく考えてみると理に適っている考えだ。
氏によると、起床後すぐにベッドで煙草を吸うと、大脳の働きがふたたび緩慢になり睡眠に到れると云う。喫煙が脳を活性化させるような気がしたが、実際の効果は逆で、頭脳労働中の喫煙は、活発になり過ぎてとりとめがなくなる脳活動の制御手段だとのこと。真偽はいかに?

 
小説に登場する人物の人格について。

内省的な人間なら虚構によって教えられるまでもなく、自己の心理と行動を振り返ることによって自らの人格が完成された統一体などというものからはほど遠い代物であることを知っている。故に虚構内存在としての人格的統一体は、現実の側から逆に考えればじつは統一体などではなく、ある一面だけを切り取られた上に極端に枝葉を切り落された、整理された便宜的人格…なのである。この人格的類型なる精神的畸型は現実には精神病院にさえ存在しない。

この指摘は、考えてみれば当然なのだが、そんな風に考え事もなく、新鮮であった。このことを意識して映画を観ると、ついつい、統一的ではない行動をとる登場人物に対して安心感を持ってしまう自分がいる。

 
時間的省略のない小説を紹介してくれている。

ジョイスの「ユリシーズ」シリーズは、作中人物の意識の流れを二十四時間、途切れ目なしに描写しています。サルトルの「自由への道」になてきますと、むしろ時間が現実以上に引き伸ばされているような感じを読者にあたえます。最近では井上ひさし氏がこれに近いことを「吉里吉里人」の中でやっています。

また、時間を断片的に、バラバラにしてしまって、モザイク状に組み立てなおすという実験をした小説の成功作として、カート・ヴォネガットの「屠殺場五号」を挙げている。

 
消費社会、マスコミについて、以下のような表現で説明している(一部こちらで変更)。

「一流の学者が何かを発見したり、発明したり、世界的な賞を受賞したりすれば、マスコミはたちまち寄ってたかって、科学と名誉をわかちあたえよと殺到する。その理論を、無理やりやさしく解説させられる。つまり、消費社会というのは、政治も、科学も、文化も、あらゆるものが三面記事にされてしまう。尊敬すべき人物はひとりもいない。みんな平等。」

昭和50年代半ばに書かれた文章だと思うが、これは今もまさに当て嵌まる。

筒井康隆がよく見る夢について

氏がよく見る夢の一つに、不良っぽい友人が登場し、女性を紹介してくれるというものがあるらしい。

この夢はどうやら、またそういった友人がほしいという願望のようだ。……これは何も女の子が欲しいというのではない筈だ。実際に、そういった友人から女の子を「世話」してもらったことは一度もないからである。そういった不良っぽい友人と、不良っぽい会話や不良っぽい行動を楽しみたいだけなのだろう。そしてぼくには、女の子よりも、あきらかにそういった友人たちの方が面白いのである。

これは、自分も共感できる話。

 
人を殺してしまったという夢。

いつの場合にも、ぼくの意識の中には捜査の進行状況への懸念があり、それによって行動しているのだ。そしてただひたすら「なんで人を殺したりしたのか」という後悔に責められている。眼醒めてのち、ああ、人なんか殺していなくてよかったおつくづく思うわけであり、まったくいい加減な気持で人など殺すものじゃないとも思う。殺人を犯した人間の暗い暗い心理を想像して思わず同情したくなるのもこういう時である。

これまた共感できる内容。自分は殺人の夢は見た記憶がないが、誰かと喧嘩したり傷つけたりして夢の間中後悔することがたまにある。

 
似たような内容だが、人を殺して庭に埋めるという夢。

死体を気にしているのならそんなことしなければよさそうなものだが、死体のことを忘れてつい庭土をいじってしまう。あっ、あれが出てくるな、と思った時はすでに遅く、たいてい庭土がごぼりと陥没して箱の一部が見えているのだ。

これもなんとなくわかる。隠さなきゃいけないのに、周到に隠せない自分のおかしい行動。氏曰く、自分自身に対して隠したがっている、あるいは思い出したくない事柄が象徴されているのかもしれないと。

 
氏は夢の文学性を信じていると言い切る。

夢という、不可思議で異様で個人的で、ノスタルジックで情動過多なそのムードが言語でもって再現し得るかどうかは、ただもう、その作家の言語表現能力にかかっているといってもよい。その意味で、ぼくはまだまだ言語というものの力を信じているし、だからこそ、そうしたことに挑戦しようという意欲も湧いてくるのだ。

非常に前向きな言葉。青年のような清々しさすら感じる。

 
話は変わり、氏は絵画の蒐集家でもあった。

包みを解かれたミレーの「鵞鳥番の少女」La Gardeuse d’oies を見て、その華やかな色彩に対する驚きが一応落ちついてのち、たちまちぼくの心に独占欲が芽生えた。独占欲というのは言うまでもなく、あまり褒められた願望ではない。いささかうしろ暗くうしろめたい欲望である。だが、ご承知の如くうしろめたさがさらにその欲望をかき立てることがある。しかもその欲望というのは、そうした欲望を理性で否定することのできる常識人であればあるほどその内部に強く蟠り、その時その欲望を否定しまったことがのちのちまで、時には死に際まで悔まれてならぬという場合が多いのである。

氏の自身への言い訳じみてはいるが、興味深い心理分析ではある。
なお、以下がその「鵞鳥番の少女」(2001年頃に氏は手放したようだ)。

gatyouban

 
文芸雑誌「海」の編集長であった塙氏に関連して。

今でもよく塙さんの夢を見るし、思い出すし、妻と語りあったりする。妻はよく「綺麗な人だった」と言う。いちど、塙さんと一緒に行ったバーの女の子に、確かめるつもりで「綺麗な人だったろ」と尋ねたが、彼女は「面白い人だった」としか言わなかった。別段惚気(のろけ)るわけではないが、知性の輝きに美を見出せる女を妻にしてよかったと思う。

このくだりを読んで、自然と笑顔になった。おそらく、身内について声高に自慢ばかりしている人のことは好きではないが、このようにたまーに大事なところで身内を褒める人のことを、自分は好きなんだろうと思う。

 
最後に。

さらっと書かれてはいたが、「芸術大学にさえ小説学部という独立したものはない。それほど難しい」。だから小説を書くための講座などに実効性はないというような記述があった。

声高に主張はしていないが、「小説を書くのは難しい」、それこそが彼の一番言いたいことのように感じた


サブコンテンツ