FIGARO掲載の角田光代さんのエッセイ「旅する理由」を読んで

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figarojapon201707

フィガロジャポンの7月号に、「旅する理由」という角田光代さんのエッセイが掲載されていた。

どうやら毎月連載しているわけではないようで、今回が旅特集だったがために掲載されてようだが、これがなかなか自分に刺さる内容だった。

角田さんが旅好きとなったきっかけは、24歳のときにいったタイ旅行だという。
1967年生まれだから、1991年頃の話だ。

その旅行ではいろんなことが起き、大勢の人と知り合いになったが、この旅のことを思い出して、真っ先に浮かぶのは名前も知らぬ男性だという。

バス乗り場で、目的地にいくバスがあるかどうか訊くと、その人はともにバスを待ち、やってきたバスに私と一緒に乗りこみ、私の目的地でともに降りた。てっきりその人もそこに用があると思っていたが、そうではなくて、ただ私をそこまで送ってくれたのだった。そのことに気づいて、ありがとうございましたと頭を下げると、ただにっと笑って反対側のバスに乗って戻っていった。おそらくそのとき、これが旅だと刷り込まれたのだ。この広い広い世界に、道を案内するのに自分に時間を惜しげもなく平然と差し出す人がいる。そういう人とすれ違うように会い、笑い合うことができる。それが、つまり旅だと。

この感覚、よーくわかる。

日本でも田舎のほうにいくと似たようなことがあるかもしれないが、海外だとより高い確率でこのようなことが起きる。

名前も知らない、もう二度と会うことのないだろう人との、すれ違うような束の間、かすかに気持ちが通じ合うような、そんな瞬間がたまらなく好きだ。どうでもいいようなことで笑い合うのが好きなのである。美術館も博物館も、未知の体験も未知の食事も、ぜんぶ二の次だ。その土地で暮らす、まったく縁もないだれかと、ほんのちょっと出会うこと。そう気づいて、私は自分のちいささに呆れてしまったのだけれど、同時に、自分の内にそうしたささやかで幸福な瞬間がたくさん詰まっていることも知った。

いやあ、自分もまったくもってそう。

いろんな国を旅したが、結局覚えているのは、良いことも悪いこともすべて人との何て事のない触れ合いなのだ。

トルコのカッパドキアの宿のおばちゃんとか、ウズベキスタンのサマルカンドで突然腕をつかんできた得体の知れない若者とか、アメリカ・テキサスの田舎町の本屋のレジのお姉ちゃんとか。

美術館も現地の食事も旅のひとつのパーツではあったが、それが目的には自分もならないタイプだ。

自分は決して”ちいささに呆れ”はしないが、今後旅をするときは、よりこの事を意識してプランを組むようにしたい。

角田さんのエッセイを昔どこかで読んだ記憶があるなあと思っていたら、「角田光代さんのスポーツクラブ考」だった。この方のエッセイ好きだなあ。


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