伊集院静氏のエッセイ「兎が笑ってる」を読んで

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兎が笑ってる 書評 感想

私の中の、伊集院静氏のイメージといえば、白シャツで小奇麗で、歳をとっても色気があり、遊び方を知っている大人。

作品については今まで接したことがなく、ようやく本書で触れることができた。

とはいえ、本作品はライトタッチなエッセイであり、これが彼の全てではないのだろう。

雑誌連載時のタイトルが「二日酔い主義」。
タイトルに偽りなしの内容ではある。
大半が、銀座か六本木で飲んでる話と、競輪の話と、麻雀の話と、飲んだ翌日に気持ち悪い(もしくは下痢)話で構成されている、今までお目にかかったことがないタイプの本である。

週一回の頻度ぐらいで読むなら、それらの話題がメインでもいいが、まとめられたものを読むと、やや食傷気味にもなる。また、ちょっと意外だったのが、筆者がカタカナで可愛い独白を結構吐くということ。例えば「ナンチャッテ」「イイネ」「ウレシーネ」etc…それがこっちが勝手に作ってるイメージとそぐわず違和感あり。

1994年から95年にかけて週刊文春に連載されていたものだから、時代としては20年ほど経っている。
当時の伊集院氏の年齢は44~45歳ほど。

以下、印象に残った点。

己の中にあるものがまとまりかかって、どうもこれは違っているなと感じたらそれを平気でひっくり返してバラバラにし、要るものと要らぬものを選別し、なんだ、結局要るものは何もないじゃないかとまた初めから積み木遊びをくり返してきた。それが多分自分のやり方で、そうするしかやりようがないのだから今さら何かにしがみついてもしようがない。

時々立ち止まって、己の中にあるものの選別をするというのは一般的だと思うが、「結局要るものは何もないじゃないか」と思えるのは、彼ならではなのだろう。
自分もそうありたいとも思えるし、そうは決してなれないとも思える。

二十代の頃に月を眺めても、何が中秋の名月だと言い捨てていた。あの気持ちが失せてしまえば、ただのオッサンでしかないのだろう

「ただのオッサン」にならないよう日々葛藤しているんだな。

よく親が「他人に迷惑をかけなけりゃ、好きなことをしていいと思っています」と言う。しかし世の中生きてて他人に迷惑をかけないで済むわけがない。

まぁ、そりゃそうだ。
恐ろしくひどい迷惑をかけずに、他人からの迷惑を受け入れていけば良いのだろう。

今から四年前の暮れに、私はこの欄で、
-気持ちがいいほど金がなくなった。
と書いた。その頃はよほど金のない暮らしが続いていたのだろう。
ところが、今年は、
-気持ちが悪くなるほど金がなくなった。

金がない話も多い。おそらく一般人からしたら相当多くの収入を得ているだろうが、野暮な人ではないからそのことについては一切匂わせない。いずれにしても、稼いでいる以上に散在しているということだ。
ギリギリまで使い切るって、いい大人がなかなかできることではない。
だから、金がない話に対しても、彼をザマー見ろと見下すのではなく、何かからっとしていて好感をいだいてしまう。

私は少年の頃から、大人の男は手ぶらで歩くものだと思っていた。早く大人になって、ランドセルや横カバンから解放されたいと願っていたし、街を歩いていて、恰好いいなと思ったアンチャンたちで手に何かを持って歩いている人は誰ひとりいなかった。

この発想はなかった。
が、あらためて考えると、確かに同じ格好だとしても、カバンを持っているとダサくなるという感覚はわかる気がする。
財布や手帳(当時はまだ携帯が普及していなかった)はどうするのかといえば、すべて上着に入ると。
なるほど。夏だろうが、冬だろうが上着を着ることが求められるってわけだ。

阪神淡路大震災について。

惨状はまだ続いている。悲しみは時間を置いてからやってくる。その時にこの誇るべき人たちが脱力感に押しつぶされないように、私たちに何ができるかを今から考えておくことだろう

「悲しみは時間を置いてからやってくる」に、いたく共感した。

娘との会話で。

下の娘はポケベルを持っていて、その基本料金が月に三千円で、彼女の月の小遣いが五千円、残る二千円じゃ何もできないらしい。そこで娘は考えて、母親からもらう渋谷から下北沢までの電車賃を浮かすために、渋谷から下北沢まで歩くと言う。そうすると一ヶ月で三千円助かる。「この間なんか近道しようとして道に迷って、目黒の方まで行ってて、喉が渇いてて、ジュース買って飲むとこれまでの努力が無駄になるし、超悲しかったよ、私」
ただ君たち、お金で工夫をすることは生きて行く、第一歩なんだよ。たぶん、それが”普通の生活”なんだろう。少し安心した夜だった。

自分も学生時代に歩いたことはあるが、渋谷から下北沢は結構歩く(Google Mapによると46分)。お金を浮かせようとする子供らしい執念を感じた。微笑ましい話。

ゴルフでどんなにひどいスコアになろうと、最後まで懸命にやるという話で

遊びだからこそ投げない。およそ遊びというものは、いったんいい加減にやると、虚無感しか残らない。遊んでいる人の顔を見ると、その人の人となりがわかる

これも共感できる言葉。

子どもの時に、自転車ごと水路につっこみ死にかけているところを近所の目つきが悪い兄さんに助けられた話。

私は神が存在するかどうか知らない。しかし入江に沈んだ悪ガキにむかって飛び込んだ時の兄さんの身体に宿っていたものが、それに近いもののような気がする。そんな行動を躊躇なくする時が、私は一番人間らしいのではとも思う。神と歩むということは、結局他人のことを思うことにつきるのではないか

何もいう事はない。

95年に亡くなったスポーツライターの山際淳司さんについて。

どの作品にも一貫して山際さんの人間を見つめる目のやさしさが感じられた。文章が落ち着いている。揺れ過ぎない、叫ばない、妥協しないといった文章の基本に忠実な作家であった。

何を隠そう、わたし自身は山際氏の作品の大ファンだから、伊集院氏が追悼文を書いたというのはちょっと嬉しかった。

 
とまあ、振り返ってみると、二日酔いとギャンブルの話の合間合間に、共感を呼ぶエピソードも散りばめられていたことが、認識できた。

阪神淡路大震災や地下鉄サリンの話も出て来るが、こう考えると、1995年というのは非常にエポックな年だったのだなあ。


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