異類婚姻譚/本谷有希子著

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iruikonintan

文庫でない本を久しぶりに購入した。

それはひとえに、劇作家としての才能に一目置いている本谷有希子氏による著作であるから。
そして、芥川賞の受賞作であることも、もちろん興味をひく一因となった。

本書には、表題作の「異類婚姻譚」以外に、いくつかの短篇が収められている。
しかし、そのページ数からいっても存在感から言っても、「異類婚姻譚」がもっとも印象深かった。

以下、心に留まった表現なり、一節なりをピックアップ。

専業主婦という看板を出してはいるものの、あまりの楽チンさんにどこか後ろめたさが拭えない。… 子供を育てていれば堂々と胸を張れるのかもしれないが、不純な気持ちを見抜かれているかのように、授かる気配もない

自分は専業主婦ではないから実際のところはわからないが、このような気持ちをうすうす感じている人も少なくないのではなかろうか。
「不純な気持ちを見抜かれているかのように」が効いている。

 

なんだか忘れられず、夜になって仕事から戻ってきた旦那に話そうとしたのだが、どうにもうまくまとまらない。キタヱさんが話すと、このまとまりのなさがむしろいわく言いがたい余韻になっていたのに、案の定、旦那には「それってなんなの、怖い話?」と一瞥されて終わってしまった。

「まとまりのなさがむしろいわく言いがたい余韻になっていた」という表現が非常にしっくり来た。
筆者の、言語表現能力の高さが伺える。

 

新婚まもなく、話があるからと座らされ、居住まいを正した旦那に私はこう言われた。「サンちゃん、俺は、テレビを一日三時間は観たい男だ。」
 
私は初婚だが、旦那はすでに一度結婚に失敗している。前の奥さんの前ではだらしなさを隠し、いろいろと格好をつけてしまったせいで疲れてしまったらしい。それで、サンちゃんには本当の俺を見せたい。えらく真剣に打ち明けるので、私もうっかり喜んでしまった。…「本当の俺」をさらけ出せたらしい旦那はその後も何かにつけて、「俺は家では何も考えたくない男だ。」と宣言するまでになってしまった。

楽する、ということに対して、どうしてここまで後ろめたさを感じないでいられるのか。聞いてみたいが、その質問に答えることさえ、この生きものはめんどくさいと言うに違いない。

どこにでもいそうであり、なかなか実際にはいなそうな、風変わりな旦那の描写。
読者の頭の中に、ダンナ像がしっかりと構築される。

 

「サンちゃん、うちに今、猫用トイレがいくつ置いてあるか知ってる?… 十三だよ、十三。猫と暮らしてんのか、猫のトイレに住まわしてもらってんのか、もうよく分かんないよ。」

よくありそうな表現ではあるが、「猫のトイレに住まわしてもらってんのか、もうよく分かんないよ」が小気味良い。

主人公サンちゃんの弟の彼女であるハコネちゃん。

おねえさん、蛇ボールの話、知ってます?… 二匹の蛇がね、相手のしっぽをお互い、共食いしていくんです。どんどんどんどん、同じだけ食べていって、最後、頭と頭だけのボールみたいになって、そのあと、どっちも食べられてきれいになくなるんです。分かります? なんか結婚って、私の中でああいうイメージなのかもしれない。今の自分も、相手も、気付いた時にはいなくなってるっていうか。

川上弘美の「蛇を踏む」を思い出した。
それは「蛇」が登場したからというだけではなく、空気感も似ている気がするのだ。

ハコネちゃんの話には、ひそかに感心させられた。というのも、これまで私は誰かと親しい関係になるたび、自分が少しずつ取り替えられていくような気分を味わってきたからである。
 
恐らく私は男たちに自分を食わせ続けてきたのだ。今の私は何匹もの蛇に食われ続けてきた蛇の亡霊のようなもので、旦那に呑み込まれる前から、本来の自分の体などとっくに失っていたのだ。だから私は、一緒に住む相手が旦那であろうが、旦那のようなものであろうが、それほど気にせずにいられるのではないか。

おそらくこのくだりが、本書の中で、もっとも象徴的なシーンであろう。
ここでも、読者の頭の中には、蛇となったサンちゃん、そして蛇となった自分自身が浮かぶことだろう。

 

旦那は「サンちゃんは主婦だからなあ。」と偉そうに言った。「家じゃなんにも考えたくないって男の気持ちが分かんないんだよなあ。」
「何をそんなに考えたくないの?」
「そういう質問の答えをねえ、考えるのも、やなの。」

サンちゃんの苛々と、ダンナのゆるさが伝わってくる。

ダンナが恐ろしく意味のない単純そのもののゲームにハマっている話しをキタヱさんにすると

「お経よ、それ。」
「お経? ゲームがですか?」
「そう。たぶん、サンちゃんのご主人はね、頭の中から苦しいこととか、しんどいこととか、嫌なことを全部追い出したいんだ。」
耳なし芳一みたいなことですか、と聞くとキタヱさんは少し考えてから、全然違うけどそうかもね、と頷いた。なんかの誘惑から、必死に逃げてるって可能性もあるわよね。

ゲームがお経とはよく言ったものだ。
「全然違うけどそうかもね」という返答もツボだった。

 

すっかり商店街びいきになってしまった。スーパーより価格も割高だし、精算も店ごとになって面倒なのに、それでもこの、手間暇をかけている、という感覚が妙に、今ののっぺりした生活に奥行きを与えてくれるような気がするのだ。子供もなく、職にも就かず、主婦としてどこかふわふわした自分にとって、こうした実感はなかなか得がたい

上でも取り上げたが、主婦が日常的に漠然といだく感覚をうまく捉えている気がする。
(追記:『日常を形作る「名づけえない時間」を意識したい』で、滝口氏が書いている「名づけえない時間」とは、まさにこんな時間なのだろうか。)

 
「異類婚姻譚」以外の短篇の中では、「トモ子のバウムクーヘン」という作品の中の以下の一文が印象に残った。

旦那にさえ話したことはなかったが、トモ子が本当の意味で落ち着くことができるのは、お兄ちゃんの頭の匂いを思いきり吸い込んだ時と、下の子の指をお守りのように握りしめた時だけだった。

この感覚! 手だれの劇作家らしい、引き出しの多さを感じる一節だ。

 
薄い本なのであっという間に読み切れてしまった。

はっきり言って、当初予想していたものとは大きく違ったトーンの作品だった。
自分にとって、本谷有希子と云えば、「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」や「乱暴と待機」に代表される激しい心情の吐露合戦を得意とする作家だった。
しかし、本作はどちらかというと静かにストーリーは進む。

とはいえ、内容自体は面白かった。
彼女の新たな一面を見た気がしたし、その表現センスにも舌を巻いた。
それでこそ、文筆業に進出した意味もあるのだろう。
舞台でできることを小説にする必要は必ずしもない。

短いストーリーだから、ふたたび気軽に読み返してもいい作品ともいえよう。
また、時間を置いて、いつか読み返してみたい。


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