不平等社会日本/佐藤俊樹著

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hubyoudousyakai

なぜ本書を購入したのか、そのきっかけは今となっては覚えていない。

しかし、今の日本は、平等なようでいて不平等がはびこっているということを認識しないといけないなと、購入時に思ったことは確かなはず。

本書の結論としては、スタートラインが家庭によって大きく異なり、家庭環境から受け継いだものが、その子の実績につながり、競争に勝っていくことが多い。すなわち機会は平等ではなく、その不平等さに勝者(もしくは敗者も)は気づいていないということ。そして、受験戦争や就活の勝者は、あくまでも既得権として勝ち残っているだけで、責任を伴っていないということである。

前半部は、機会の平等が保たれていないことを示すために、やや冗長な説明が続くが、中盤からの解き明かしていく過程では、筆者のぶれない主張が貫かれており、理解が進んだ。

同じ内容を、違う言い方で説明している箇所も多いが、このぐらいしつこく主張されて初めて腑に落ちるという面もある。

以下、長くなるが、心に留まった箇所をメモ。

親も高学歴の専門職・管理職で、本人も高学歴の「相続者」たちが、自分の成果をみずからの「実績」とみなす。

(親と同じ道を歩むのが)あたりまえという雰囲気のなかで育つことで、何をやりたいのかという目的意識を欠いたまま、曖昧な形で選抜競争を勝ち抜き、「実績」をつくる。

(高学歴で専門職・管理職に就く親をもつ)家庭に生まれたという有利さによって、競争には勝ち残りやすい。勝ち残ること自体が目的となっていても、勝ち残ったという点では手に入れたものだから、得た地位に対する権利意識は強い。

「実績」は、何かができるはずだという責任をともなう資格という意味をうしない、たんなる既得権へと変質していく。既得権に責任はない。自分が選んだわけでもないのに、手に入っているものだからである。

西ヨーロッパのような明らかな階級社会であれば、たとえ競争という形をとっても、それ自体の不平等さが目に見える。目に見えるがゆえに、競争に勝ち残った人々は勝ち残ったという事実だけでは自分の地位を正当化できない。自分がその地位にふさわしい人間であることことを目に見える形で積極的に示さなければならない。
 
ところが、戦後の日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきた。
(結果、)「高貴な義務」という観念すらもたないエリート集団がつくりだされるのである。

みずからの力によらないという事実にすらまったく気づかない人もいる。平等社会の神話につかったまますべての人が自分と同じように生活していると思い込んでいれば、みんなまったく同じ条件で競争していると考えても不思議はない。

(面接や小論文では)消去できない偏りが発生する。特に大きいのは文化的同質性である。人間には自分と似た人間を高く評価するくせがある。選抜する側が一つの文化的特性を共有している場合、選抜される側に同じ文化的特性をもつ人間がいると、その人を全員が高く評価してしまうのである。

「個性重視」の選抜では、この偏りから逃れることができない。したがって、例えば大学入試で面接や小論文の比重が高くなれば、大都市、特に東京周辺の高学歴家庭の子どもたちがどんどん有利になってくるだろう。大学入試にかぎらず、企業や官庁の採用や人事評価でも同じことがおきてくる。

ペーパーテストには、こうした文化による影響は弱い。その分、さまざまな出身のちがいをより公平にあつかう。選抜にかかるコストも安い。ペーパーテストというのは、きわめて多数の人間を一律に選抜するのに適したやり方なのである。

選抜社会をうまく運営していくためには、「敗者」とされた人々が、意欲と希望と社会への信頼をうしなわないようにしなければならない。そこには敗者を「再加熱」するしくみが欠かせない。
 
そのしくみは大きくいって二つある。
(a) 選抜機会の多元化
(b) 選抜自体の意味の空虚化
 
日本の選抜システムは形式的には高度に平等で、全員を同じ年齢で一律に選抜にのせる。その上、選抜の方法も主観的な偏りがはいりにくいペーパーテストが主で、選抜機会はかなり強く一元化されている。
その分、「敗者」とされた人は「向こうの見る目がなかったのだ」といった解釈をしづらい。
 
それゆえ(b)のしくみに強くかたむく。「選抜そのものが実は空虚なのだ」と選抜の勝者が言明する。エリートがエリートであることを自己否定する形で、「敗者」の意欲をそがないようにする。簡単にいえば、「ボク、テストでいい点とるのがうまいだけなんです!」とエリート自身が告白したり自己批判することは、この社会の選抜システムにとって、重要な「お約束」の一つなのである。

生まれによって選抜での有利不利が決まり、それが結果に反映されるのであれば、競争で勝った人間が極端な大金持ちとなり、負けた人間が極端にみじめな生活を送るのは、不公平だといわざるをえない。

「選抜の歪み」を本当に問題にしたければ、「実力本位であるべきだ」というスローガンを唱えてもしかたがない。実力が簡単に正しく測定できるなら、最初から実力で測定しているはずだ。できないからこそ代理指標をつかっているわけで、それに対して「実力本位でやれ!」というのは、たんに「現在の選抜基準は代理指標だ」といっているにすぎない。

私たちは機会の平等を結果の平等のアナロジーでとらえがちだが、機会の平等は結果の平等とはまったく異質な原理である。結果の平等は目に見えるが、機会の平等は直接目に見えないということである。
 
機会の平等は、個人個人がもつさまざまな背景のちがいまで調べなければ、守られているとも守られていないともいえない。大きな貧富の差があっても、個人の努力のちがいによるものならば機会の平等は守られているし、逆にほとんど差がなくても、それは一部の人の機会が不当に狭められた結果かもしれない。

例えば累進的な所得税や相続税は、本当の実績主義という立場からみても、不公平なものではない。本当に本人の力によると思われるもの、例えば創業者利益などは、特別の税制をもうけて手厚く保護すればよい。そして本人の力によらない不利や不幸が発見されたならば、税金で社会保障をすることを考えるべきである。

現代社会では数値は特別な真理として、他人を黙らせるために使われやすいが、本来数値というのはそこから他者と話しはじめるためにあるのだと私は思う。

ペーパーテストのメリットと弊害、面接や小論文の弊害、選抜社会の歪みを正す仕組み、機会の平等を実現することの困難さについても興味深かった。


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