骨肉の倫理/石川達三著

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骨肉の倫理

表紙をめくったところにこうある。
人間はそのエゴイズムによって、他人に対するよりも、肉親(=骨肉)を激しく憎む。むしろ骨肉であるがゆえに憎悪は他人に対する場合よりもさらに激化する」と。

本書は昭和30年代に書かれたもので、登場人物との間隔のズレも随所に感じられた。

小説ということもあり、ここから何かを学んだということはさほどなかったが、それでも身内同士が争う、ギスギスとした感じは、心の中に残っている。

以下、気にとまった箇所をメモ。

学校教師の姪がどろぼうして警察につかまったということにでもなったら、世間はマリ子を非難しないで、僕の方を非難するんですよ。… 警察の方では、先生なら一番信用すると言うでしょうが、逆に言えば、先生というのは一番大きな迷惑を受けるということになるのですよ

これはマリ子の叔父にあたる、先生である道也の理論。これはよくわかる。

一方で、マリ子の祖母であるたみ子としては

あなたはそれでも、教育者というものなんでしょうかねえ。手くせの悪い子供を、引き取ってやろうともしないで、自分の立場ばかり大事にして、そんなことで先生がつとまるのかしらねえ

時代もあるだろう。この言い分もわからなくはないが、今の感覚からするとずうずうしいと感じてしまう。

本書では、こういった「骨肉の小競り合い」がずっと続く。

道也の父親である伊之助の妾であり、手当ももらっている飯田てる子が、他にも男がいるのではないかという話に関しての、道也の嫁・友子の態度。

友子の口ぶりには、嫉妬のようなものがあった。人道的な憤りのなかに、羨望のようなものが混じっていた。飯田てる子が二人の男を持っていても、友子には何の被害もない。被害はないが、許しては置けないのだ。… 二人の男と肉体関係をもつことには、心臓がふるえるようなスリルがある。友子にはそれができないのに、飯田てる子はこっそりやって居るらしい。だから許しては置けない気持だった。彼女は伊之助にもてる子にも、直接そのことを言うわけには行かない。しかし言わずには済まされない。だから間接に、たみ子にむかって言いたかった。間接にはなしをする方が、彼女自身は責任が軽い。もう一つは、たみ子をも仲間に引き込むことができる。そういう間接的な暴露と告発とは、女が好んで用いる常套手段であった。

小津の「東京物語」のような昭和30年代頃の映画を見ていて、時々違和感を感じていたのは、これだと思い当たった。そう、当時は「間接的な暴露と告発」が、嫌な役の女性が使う常套手段だった。

 
伊之助がてる子との別れを察した場面。

十年の馴染みを重ねても、妾という関係はそれっきりの、根の浅いものであったのだ。… 別れるという段になってみると、二人のあいだには何も残っていないような気がするのだった。夫婦でない男女関係というものは、無事につづいているあいだは強い結びつきのように思われても、一旦結びつきが破れてしまうと、一体これまでの関係が何であったろうかと疑われるようなものだった。伊之助は赤の他人を見るような気持で、飯田てる子を見ていた。

一方、良夫(これで「おっと」と読ませている)の坂本と離縁しようとしていた悦子のもとに、坂本が戻ってきて、離縁しないことを宣言する。

夫婦というものはこんなにも別れられないものかと思うと、息がつまるように苦しかった。いやになったらお互いに、さようならと手を振って、あっさり別れることができたら、どんなにさっぱりして良いだろうかと思った。そういう夫婦もある。しかし、どんなに別れようとしても別れられない夫婦もあるのだった。

二つのカップルを、対照的に描いている。

 
最後に、十辺肇氏による解説から。

人間をエゴイスティックにさせる最も強力な契機となるのは金銭だと作者はいっているようだ。この作品でも、彼らが相争う理由は、どの場合にでも結局は金のためである。… この小説には、愛欲の問題が全くないのも現代小説として、めずらしいことであるが、金銭がいかに骨肉関係にあるべき愛情を破壊し、人々を不幸に陥れるかが主題である。… 愛欲が書かれていないということが、この作品が血で血を洗う肉親の葛藤を描きながら、どろどろとした不快さのないものとしているではあるまいか。

伊之助とてる子の関係も愛欲というには淡々としているという。

確かに、読んでいて不快感は募るものの、さほどひどいとは感じなかった。
それは「愛欲」ではなく、「金銭」に根差しているのかもしれない。


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