【書評・感想】 ロシアについて 北方の原形/司馬遼太郎

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歴史小説家として名を轟かせている司馬遼太郎氏。
しかし、学生時代に私が日本の歴史を学ぶのを苦手としていたことにより、知らず知らず遠ざけており、今まで読む機会に恵まれていなかった。

最近本書を譲り受け、やはり一度は読んでみないとと一念発起し、読むにいたった。

本書は小説ではなく、ロシアにまつわるエッセイである。
とはいえ、思ったままに書き連ねているものではなく、ロシアと特にシベリアの歴史と、その周辺諸国との関わりの歴史を丁寧に論じ、ロシアの全貌を明らかにしようとしている。

初めて氏の著作に触れたことが、こんな遅くになってしまったことを後悔するほど、内容に興味を持てたし、勉強にもなった。

本書が発行されたのは1986年で、当時はソ連邦の東西冷戦時代。
しかし、あれから30年が経とうとしている現在においても、内容が古くはなっていないし、示唆に富む内容となっている。

以下が、記憶に留めておきたい箇所だが、自分の不勉強さゆえ、知らないことがあり過ぎて、厖大な量となってしまった。

北方領土問題に関連して。

もしソ連が、無償で北方四島を日本に返還するようなことがあれば、それとおなじ法解釈のもとで、多くの手持ちの領土を、それはわが国の固有領土だと思っている国々に対しても返還せねばならないという理屈がなりたつ。ソ連の首脳部にとって、返還など、無理難題を越えたほどのことだということを、私どもは成熟した国民として理解しておく必要がある。

これは、今もなお残る問題。
国民が外交の基本姿勢を理解しておくことは大切なことだと私も思う。

ヤルタ協定では、広大なモンゴル高原と、小さな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように相並んで記され、アジアにおける戦後領域がきめられたのである。このことは、もし千島列島をソ連が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定が崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその「現状が維持される」ことを、法理的にはやめざるをえなくなる。

一般の日本人にはこういった感覚はないと思うが、モンゴル高原と千島列島とでは確かに大きく違う。それが並列になっているいびつさ。
現在のロシアのモンゴルへの影響力は、当時よりはだいぶ落ちていると思われる。

ロシアの国家としてのスタートは遅い。

中国のように長城や防御力をもつ都市をつくるにいたらず、また西方のローマ文明社会のように城壁と石造城館をもつ都市国家をつくるということもしなかったということが、ロシア国家史の開幕を遅らせ、またその遅い開幕を内容をも特異なものにしたといえる。

現在のスウェーデン人(当時のノルマン人のことと推測)がキエフ国を建国。

一般に、後発の社会にとって、国家というものをつくるとき、その作りかたを、近隣の文明から借用するということが多い。日本の場合、古代は稲作を支配する豪族がほうぼうに蟠踞(ばんきょ)していたが、六、七世紀に中国式の体制を導入することによって国家の体をなした。とくに七世紀の律令制の確立がそう(この借りものの体制から、日本が自前の体制になるのは、鎌倉幕府の創設からだと私は思っている)。
 
九世紀に樹てられるキエフ国家の場合も、ロシア人が自前でつくったのではなく……海賊を稼業としていたスウェーデン人たちだった。

そして、十三世紀の初め、ロシア平原の地をおおう異常事態が発生。チンギス汗・モンゴルがやってきた。

モンゴル人の誇りは風変わりである。まず農耕をしないこと、次いで工芸品を作らないこと。それらは卑しいことと思っており、農業というものについては農民から作物を掠奪すればよく、工芸・工業については、その職人ぐるみ連れ去って自分たちに奉仕させるというやり方をとった……生き方を異にする農民やまた他民族に対し、人間としての同情をほとんど持たなかった。

モンゴル帝国に無茶苦茶にされたというわけ。

こんにちのモンゴル共和国や中国の内蒙古にいるその子孫たちはやさしいひとびとで、その先祖が人類を震撼させたとはとても思えない。人間というのは、ある歴史段階である条件群をあたえれば、いつでもチンギス汗の軍隊たりうるということをわすれるべきではないと思う。

こういった教訓的な視点がときどき挟まれるのは、司馬さんならではだと思う。

ヨーロッパを真にヨーロッパたらしめたルネサンスの二百年という間、ロシアはひとり「タタールのくびき」によって、その動き、影響から遮断されつづけた……正統教会の活動はおとろえていなかったが、本山であるビザンティンがカトリック世界で起こっている諸現象に鈍感であったために、教会を通じてルネサンスの潮流が入ってくるということも阻まれていた。たとえ入ってきても、それを受け容れる美術工芸の担い手が壊滅してしまっているため、その点でも西方の文明からの不導体たらざるをえなかった。

「タタールの軛」。よく名前は聞くが意味を正確には理解していなかった。

ロシアの貴族と、日本の江戸期の大名の違い。

ロシア貴族は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有物の上に載っている農奴も私物だった。農地・農奴は持ち主の貴族の意思によって売買される。これに対し、江戸期の大名は、そもそも自分の城を売買する権利すらない。お国替という配置転換の命令があると、城を空け、掃除をし、つぎの大名にあけわたして出ていった。

江戸期の大名は、行政の場である「表」だけでなく、私生活の場である「奥」までが行政化されていた。性生活ですら相続をたしかなものにするための子供づくりという目的意識が明快で、まわりの家臣たちから管理されていた。

大名にもいろいろ苦労があったと。

明治政府は、実質を失った大名に対し、廃藩置県したあと、石高に応じ家禄を与えた。……旧大名はただの個人になってしまった。……ここで旧大名は、はじめて「私有」という権利を得た。”大名の解放”というべきものだった。……かれらの多くは、私有になった土地を人に貸したりして、いわば不動産収入で食べてゆくようになったが、いわば大名を廃業してからかえってかれらは私的に豊かになり、ほとんどの大名が「こんないいことはない」といってよろこんだという。

これもロシアとは関係がないが、江戸期の大名がさほど恵まれていなかったことを示す話である。

シベリアの大地は、長いあいだロシアにとって毛皮を採集するためにのみ存在した。とくにそこに多く棲んでいた黒貂の毛皮はパリの市場に出せば、当時のロシアの産業水準の低さからみれば慄えるほどの高価な値段で売れるのである……黒貂が獲りつくされるころ、海獣であるラッコがこれにかわった。ラッコは、カムチャツカから千島列島などにふんだんにいる。しかしシベリア経由でこれを欧露に送るというのは、大変な費用と時間のむだだった。できれば、東アジアの文明世界でそれを売って金にしてしまいたかった。

シベリアの広大さゆえ。

江戸期の日本社会における貧富の差は、他のアジアにくらべてはるかにすくなく、貴族は富むこと薄く、庶民は富みを手に入れる上で多くの機会をもっていた。……北は蝦夷地から南は種子島まであらゆる商品をのせた商船が巡航し、とくに大坂と江戸のあいだは、江戸中期までは日本海まわりの航路を主に、さらに中期以後は太平洋まわりの航路が発達し、廻船がすきまもなく往復していた。

上にあった、大名が恵まれていなかった話と辻褄が合う。

鎖国期であるため航洋船の建造は禁止されており、マストは必ず一本、帆は一枚たるべきこと、大きさは千石を超えざることというぐあいの発令があるために、航海にはつねに無理がともなった。……日本近海で吹きとばされた廻船が、しばしばカムチャツカ付近に漂着したため、江戸後期は、一面では漂流民とその送還にともなう外交軋轢の時代となった。

鎖国⇒船の装備を貧弱に⇒漂流⇒外交軋轢という流れ。

モンゴル帝国はあたらしい技術を技術者ぐるみとり入れ、火薬や擲弾、それに攻城用の大砲(投石機)をふんだんにつかったが、弓矢だけは手放さなかった。いかなる民族の弓矢よりも遠くへ矢を飛ばすその弓と騎射術はかれらの武力の根源であったが、同時に騎射はかれらの存在そのものであるといえるほどに、かれら自身をその固有の技術から切りはなすことは暮らしの意識として不可能に近かった。

結局は、騎射へのこだわりが強く、文明の変化に乗れず、衰退しくことになる。
ダーウィンではないが、変化についていけるものが、生き残るのだ。

17世紀後半頃のロシアにとって、シベリアの原住民、とくに採集生活者というのは、毛皮獣を獲らせるために存在していて、人間として生きる権利があるために生存していたのではなかった。……奴隷。この古代的な存在が、日本でいえば江戸時代のロシアにたっぷりと存在した。農村においては、農奴制がごく一般的なものであった。そのころのロシアにあっては、町や村の女たちをだましてシベリアに連れてきて奴隷として売ることは、慣習上の抵抗はなかったのであろう。

モンゴル帝国同様、ロシアもシベリアの原住民に対してはひどい扱いをしており、命令に従わなかった村は全員殺したりもしている。

ロシアが、地球上にこの島嶼国家、日本があるということを知るのは、じつに遅かった。はじめて日本を情報として知ったのは、1675年に清国に使いしたニコライ・スパハリーという官吏である。

それだけ当時のロシアの視野が狭かったということだろう。

1699年、カムチャツカに漂流した大坂谷町の質屋「万九」の若旦那、伝兵衛はロシアの官吏によって優遇された。モスクワへつれてゆかれ、ピョートル大帝にも拝謁し、さらにピョートルの命令で1705年、イルクーツクに最初の官立日本語学校をひらいた。

後でも出て来るが、ロシア人は学校好き。

当時のロシアの日本への関心の中心は、領土にはなく、シベリアの産物を日本に売り、日本から食糧を買い、シベリア開発を容易なものにしたいというところにあった(このことは、いまも一貫してつづいている。シベリアが存在するかぎり、この関心はたえることなくつづいていくにちがいない)。
 
ロシアが中国や日本に領土欲を持たなかったのは、帝政時代のこの国の国家習性とかかわるもので、人口も多く統治がととのっている国に軍隊を派遣しようとしなかったし、また遠征を可能にする条件ももっていなかった。かれらがシベリアに食いつき、それを略取したのは、それが容易だからだった。

ロシアが日本の領土に関心を持たなかったのは幸いだったのかもしれない。
江戸期の日本の防御能力は著しく低かったらしいから。

ロシアの南下を警告する「赤蝦夷風説考」の著者である工藤平助。彼の経済感覚によれば、ざっとみて、日本は、松前・大坂・長崎からなりたっていた。この時代、蝦夷地と大坂間には織るように船がかよい、その船は魚肥を満載して大坂に荷上げした。大坂の魚肥問屋はそれを全国に撒くのである。魚肥は棉作に欠かせぬものだが、北海道の鰊は綿のかたちになって四民に衣料を提供していたことになる。

松前藩、すなわち今の北海道が、江戸期にそれほど大事な役割を果たしていたことは知らなかった。

「赤蝦夷風説考」には、オランダ人から長崎経由で入ったロシアのシベリア征服観が記されており、それはロシアに好意的な内容となっている。オランダ人をふくめた当時のヨーロッパ人の平均的な考えがよくあらわれている。シベリアの原住民たちが野蛮なタタールに支配されているよりも、ロシア人から法と秩序を与えられて幸福なはずだ、というヨーロッパ的な見方であり、このことは同時にオランダ自身のインドネシアなどに対する植民地支配の論理でもあった。

文明国が陥りがちな、選民思想のような考え方。

鎖国時代の日本にあっては抜荷(密貿易)は大罪だった。唯一の限定貿易港である長崎において幕府の厳重な監督のもとに清国とオランダにかぎり通商がおこなわれてきたのだが、じつは裏口ともいうべき北方があきっぱなしになっていた。秀吉のころすでに松前家は、中国の蘇州製の錦(中国の官服の古着)をカラフト原住民から手に入れていた。その古錦は京やのちの江戸に売り出され、「蝦夷錦」とよばれて特別に珍重された。

幕府も、蝦夷錦には目をつぶっていたという。

シベリア鉄道の完成は、当初は単線ながら、日露戦争に間に合い(1904年)、勝敗は別として日本軍を激しくたたきつづけることができた。

日本の規模の国からは想像できないような、大きな大きな国家事業。

シベリア鉄道以前は、官営駅伝が中央・地方の連絡の役目を果たしていた。この駅伝制こそかつてキプチャク汗国やモンゴル帝国という超広域支配の征服帝国の時代も、その機構をささえるのに大きな機能を果たしたものであったが、ロシア帝国がその制度を継承した。……冬は、シベリアの諸河川が凍るために、他の季節よりもかえって駅伝にとって迅速に行動できた。蒸気動力以前においては、シベリアの橇(サンカ)ほどすばらしい交通機関はなかった。

司馬さんも絶賛する駅伝制度。

ロシアは十七~八世紀に日本に対して黒貂やラッコの毛皮を売ろうとして失敗したが、日本における毛皮および毛織物の需要のなさについては、それまでの日本史が既に二度経験していた。

最初の経験は、七世紀末に、渤海国からの働きかけによる。
日本の奈良朝の聖武天皇の神亀四年(727年)使者をよこして国交をひらき、以後、百九十年ほどのあいだに三十五回も遣日使をよこした。
渤海のねらいは貿易で、日本から絹布や麻布、漆などをもとめ、渤海からは主として黒貂や羆の毛皮などをもってきた。これらの毛皮は、はじめのあいだこそ貴族たちの子供っぽい好奇心を惹いたが、やがて需要の気分が衰弱した。当時の日本人には毛皮の用い方がわからなかった。

「貴族たちの子供っぽい好奇心」という司馬さんの表現に棘があって良い。

二度目は、十七世紀初頭、英国の東印度会社が対日貿易のために派遣したリチャード・コックスが毛織物を売りつけようとしたが、よく市場調査をしていたオランダ人と異なり、コックスには調査が欠けており滞日十一年で商館を閉じ日本を去ることになった。

日本の湿度が高いことも、毛皮にとってはよくなかったようだ。

江戸期の赤穂の塩は日本一の品質をもっていた。「いいものがほしい」という、商品経済の熟成期の傾向がすでに社会をおおっていた。塩であれば何でもいいという社会ではなくなっていたのである。

「赤穂の塩」、これまた名前は知っていたが、江戸時代にそれほど人気があったことは知らなかった。
赤穂は、兵庫県の南西部、岡山県との県境に位置し、瀬戸内海国立公園の一部を成す。
江戸時代に「十州塩田」が成立し、その十州の中で赤穂がもっとも有力な生産地であった。

日本の江戸期のアラスカはロシア領で、主としてラッコなど海獣の捕獲に役立てられていた。ロシア領といっても、皇帝から特権を与えられた露米会社のものだったといってよかった。「露米」の米はアラスカのことである。

そう言われてみれば、歴史で習った記憶が。。。
露米会社という名前も、冷静時代に見れば皮肉なものだ。

日本にとってのシベリアは、冬季の寒気団の発生地というだけで、なんのかかわりもない。いわば、シベリア問題の中での「日本」は、ロシアの一方的な思い入れで、日本としては呆然とするほどのよそごととして在りつづけてきたのである。

おっしゃるとおり。ソ連、ロシアへの日本人の関心は一般的に低い。

水田稲作という弥生式文化は、稲だけでなく、セットとして農機具や灌漑技術とその道具、家屋のつくり方、さらには、田ゲタから田舟にいたるまでを持ちこんだ。また、堆肥と燃料をとるために山に入り、落葉や下草を採って、林間を座敷のように掃除しつづけた。このため、それまで一般に照葉樹林だった日本の山林は、落葉の堆積をうしなって栄養不足になり、かわって松という痩地を好む樹にとってかわられた。

松が外来種だという話は知っていたが、稲作の影響もあったとは。

1803年、ロシアは最初の国家事業としての世界周航に乗り出す。この航海は、ロシアにとって誇るべきものだった。風帆船の時代、「世界周航」というのは、容易になしうるものではない。国家にとってもっともかがやかしいもののひとつで、その国の民度、統治力、科学技術がある水準に達したことの証拠になることでもあった。

核しかり、宇宙事業しかり、ロシアのその後を示す出来事である。

十八世紀末のロシアはなお野蛮遊牧の生活の影響下にあった。しかし、一方で急速に商業が興りはじめた。商業がおこる社会は、人間意識を変えて、合理的なものの見方へ方向づける。商業ときびすを接するようにして、科学と文学が勃興した。さらに、国内の商業の高まりと調子をあわせるようにして、貿易をさかんにした。相手は英国。これにともない、急速に、かつ列強が嫉妬するほどのりっぱな海軍をつくりあげた。

世界的に見れば国の立ち上がりは遅かったが、そこからの巻き返しが早かった。

ペリーの来航時の話。

当時、アメリカの捕鯨業界は日本に寄港地をもとめていた。が、日本は鎖国をしていた。これを開国させるべく、捕鯨業界はロビィストを使って議会に働きかけ、やがてペリーとその艦隊を派遣させることになる。ペリーが、そういう、いわば卑しいとまでいえるほどの実利的な背景でもって日本に来ながら、変にたかだかと高邁な顔をしていたのは気にくわない。

司馬さんが、ペリーを心底嫌っているのがわかって、逆に微笑ましい。
ここまで著名な作家が一人を攻撃するのは珍しいのではないか。

なぜペリーが高邁な顔つきができたかといえば、彼が商品のつかいではなく、大統領の命を受け、軍人として国務を遂行していたからだという。

別の箇所でもペリーについて触れている。

ペリーはもともと恫喝と威嚇こそ東洋人相手には有効だと認識し、その方針でやってきて終始つらぬいた。ペリーは成功したが、品性のわるさを歴史に記録させた。かれは下僚からも好かれていなかったし、むしろ憎悪され、軽蔑されていた。

ペリーの人格を攻撃している。

日本の対外応接慣例からいえば長崎入港が当然で、将軍の膝元にくることは先例違反だったが、ペリーはそれを知りぬいてあえて江戸湾に突入し、停泊し、いつでも江戸を砲撃する姿勢をとったのである。ペリーの予想どおり、幕府も国内世論も、歴史はじまって以来の恐慌(パニック)を呈し、結局、和親条約を結ぶことになる。

日本の外交歴史における汚点であろう。

皇帝の権威によって十分に装飾された、レザノフの使節は、皇帝の国書までたずさえていたにもかかわらず、江戸幕府からぞんざいな扱いを受けた。……幕府は鎖国が祖法であることを説いてきかせただけで、国書すらうけとらなかった。この時代、べつの条件下の両国間でこの事態があれば、それを開戦の理由にされてもやむをえないものであった。
 
さらに、長崎停泊中、日本側は、「艦が持っている一切の火薬を日本側があずかる。銃器も同様である。後日、出港のとき返す」と申し入れ、さほどの加害意識なく、ロシア軍人とその軍艦に対し侮辱を加えた。この処置は、累代の友好国であるオランダ船に対してとられてきたものだった。

鎖国中とはいえ、無知とは怖いもの。

ゴローニン少佐とリコルド少佐によって著された航海の回想録である「日本幽囚記」は1816年に出版され、ただちにヨーロッパ各国語に翻訳され、ひろい読者を得た。江戸期の日本は国を鎖ざしているくせに、したたかな情報収集能力をもっていた。江戸幕府により五年後の1821年に日本語版が翻訳刊行されている。

果たして本当に「したたかな情報収集能力」があったのだろうか。これだけの情報だと何とも言えないと思ってしまう。

江戸期の日本は世界の文明国の歴史のなかで、類がすくないほどに非武装の国であった。そんな日本国が、わざわざカムチャツカ半島の一寒村まで攻めてくるはずがない。でありながら、ロシア側はそこに砲兵隊を駐屯させて毎日訓練している。……辺境の港には小さくとも要塞設備をほどこすというのが、当時のヨーロッパにおける防衛上の常識であったとしても、ロシアの場合、原形として過剰なほどに大砲がすきで、無用なほどに防衛本能がつよかったことを思わせる。むろん、いまもこの遺伝病はつづいている。

用心深いお国柄。

元の場合、帝国意地が不可能とみると、じつに淡泊だった。中国内部にいたあらゆるモンゴル人が、騎乗する馬に鞭をあて、武装したままで北のモンゴル高原の草原をめざして帰ってしまった。当時、漢民族は、この歴史的現象を「北帰」とよんだ。

見切りも早いと。

満州人の中国支配は、歴史の奇蹟といってよかった。わずか男女六、七十万という人口の民族が長城の内側になだれ入り、人口数億の大陸を支配したというだけでも驚くべきことだが、その統治能力は、歴史上のどういう王朝よりも卓越していた。……しかし、中華人民共和国も中国の知識人も、清朝の功績をみとめようとしない。その理由は、異民族王朝であったこと、中国近代史のはじめりは滅満興漢という合言葉から出発したことによる。

満州の支配・政策がここまで評価されているのは知らなかった。

満州(清)王朝が、結果として漢民族のためにやった最大の功績は、モンゴル高原を中国の版図に入れたことである。だけでなく、そこにいる騎馬・遊牧民族を、ラマ教などを勧めることによってまったく骨抜きにし、民族の骨髄まで腐らせてしまったことだった。……ラマ教。この仏教はインドで成立したものだが、仏教というよりも、いわゆる左道密教なのである。左道というのは、邪道という意だが、人間の欲望を積極的に肯定し、性交を密教原理の具象的あらわれとし、かつ秘儀とするものであった。男女合体の「妙適(エクスタシー)」像をあがめるだけでなく、ラマ僧自身が初夜権をもつ。結婚前の娘たちを性交によって祝福するのだが、ラマ僧に梅毒を保菌している者が多いために、それを新妻たちに感染させることになり、このことが人口増加を衰えさせる結果になった。
 
モンゴル人におけるチベット語は、明治後の日本人における英語やフランス語のようにカッコイイものであり、モンゴル人たちの間に、ごく半世紀ぐらい前まで、女の子の名をチベット名前にしたがる伝統が続いていた。チベット名前ならそれだけでハイカラで可愛く、やや哲学的であるという響きが、かれらには感じられたのである。

そして清朝は、ラマ教がモンゴル人の悍気を殺ぐ上で大きな効果があることを知ると、この普及と奨励を政策化した。確かに、一見馬鹿馬鹿しくも思えるが、影響は大きかったようだ。
なお、いまのモンゴルには、内外とも梅毒患者はいないとのこと。

清の商人たちがモンゴル人に売りつける主要商品は、磚茶(たんちゃ。固形に圧搾した茶)であった。モンゴル人にとってこのレンガ状の茶は生命保持のために必要のもので、何をおいてもこれだけは買いたがる品物であった。むろん最初は物々交換だった。羊などと交換するのだが、やがてモンゴル人は金銭という便利なものをもつようになった。清国商人たちはみな高利貸化した。モンゴル人たちは羊などをかたにとられ、さらに借金して磚茶を手に入れ、ついには羊なども持たなくなり、一片の磚茶を持って草原をさまようになる。高利貸しからのしめつけがくるしいあまり、ロシア領へ逃げるモンゴル人が多くなった。
 
モンゴル人たちが、ロシアを慕ったのではなかった。かれらはロシアもきらいだった。比較して、ロシアのほうがましというだけのことだった。ひとつには、ロシア人にはモンゴル人への蔑視感がすくない。中国人の場合は強烈だった。伝統的にモンゴル人を蛮夷視してばかにし、その生活と生産を理解しようともしなかった。

モンゴル人苦難の時代。

ロシアは異民族地帯に乱がおこったときに、救援をもとめてくる一派の勢力に加担し、その一派から出兵を要請されたとして出兵し、そのあと「法を改め政を匡す」(ロシア領にする)というものである。この伝統はその後もつづき、いまもつづいている。

ロシアに限らない気はするが、確かにいまもなお続いている。

文明には「型」がある。ロシアにおける文明では、初等教育の学校を建てるということがその一つだった。文明における型ということにおいては、この時期の中国文明の辺境政策は、ロシア文明にくらべて劣っていたとはいえる。……
当時の日本は、問題にすらならない。松前藩は、蝦夷地においてアイヌの学校など建てたことはない。そういう発想もなく、むろん型もなかった。

日本に文明はない。

黄色人種(モンゴロイド)といわれる世界じゅうの諸民族のなかで、卑屈ということからもっとも遠い精神をもつのが、モンゴル人である。

これは初めて聞いたが、説得力がある。
日本におけるモンゴル出身の力士を見てもそう思う。

明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州における権益を相続したのである。がらにもなく”植民地”をもつことによって、それに見合う規模の陸海軍をもたざるをえなくなった。”領土”と分不相応の大柄な軍隊をもったために、政治までが変質して行った。その総決算の一つが”満州”の大瓦解だった。この悲劇は、教訓として永久にわすれるべきではない。

分相応、分不相応、司馬さんはそれを大事だと考えている。

日本における狡猾さという要素は、すべて大正時代に用意された。国内的には大正デモクラシーとか、大正的な大衆社会の現出を見ながら、対外関係においては、後世からみても、卑劣としか言いようのない国家行動が、その立案者にすれば、愛国的動機から出ていた。

愛国心というのは、得てして毒にもなる。

大正時代の日本は、それまでの日本の器量では決してやらなかったふたつのことをやった。
 
ひとつは、大正四年(1915年)に、北京の軍閥政府に対してつきtけ、恫喝でもって承認させた「対華二十一ヶ条の要求」といわれるものである。これによって日本の印象は決定的に悪化した。このことは中国に民族運動をおこさせるもとになったが、日本国内に対しては見えざる要素がひろがった。他国とその国のひとびとについての無神経な感覚というべきもので、かつてわずかな量ながらもその中に含有していた日本の心のよりましな部分をはなはだしく腐蝕させた。
 
ついで、大正七年(1918年)から数年も執拗につづけられた「シベリア出兵」である。当初、連合軍(日、米、英、仏)が組織され、二万四千八百の兵力のうち半分ちかくが日本軍だった。その後、日本軍だけは七万三千に増強された。二年後には他の国は撤兵し、日本軍だけがのこった。この間、日本軍の損害は大きく、死傷は三分の一に達した。前代未聞の涜武といえる。

学校で、普通に歴史を学ぶと、前半はゆっくり進んでいくが、大正以後は出来事も多いし、進むスピードも速くほとんど印象に残らない。

しかし、今の日本が教訓とすべきは、大正以後に多くあるのだろう。
教育の現場でも、それは踏まえてほしいと願う。

 
人間は同じことをくり返す。
だからこそ、過去の歴史を学ぶ価値がある。

本作に接して、本当に勉強になった。
司馬さんの別の著作にも触れてみたいし、他の意見を取り入れるために、他の作家の歴史作品も手に取ってみたい。


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