【書評・感想】 辺境・近境/村上春樹

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henkyou haruki murakami

久しぶりに村上春樹氏のエッセイを手にした。
「走ることについて~」以来だろうか。

読み終わって、素直に楽しかった。
旅好きだというのもあるが、本作が肩に力を入れて真剣に読むタイプのものではなかったからだろう。

彼のエッセイは、休日に何も考えずに、ゆっくり楽しむのに適している。
文学的な話もありつつ、本人がひどい目にあった話がありつつ、自慢が少なく、落とし所も狙い過ぎず、それでいてニヤリとさせられ、非常に心地良い。

著者の表現で、うまい書き方だな~と感心したり、共感したところも多い。
以下は書評というよりも、備忘録的に。

 

イースト・ハンプトン 作家たちの静かな聖地

イースト・ハンプトンの「ザ・ピンク・ハウス」というゲストハウスについて。

もうひとつこのゲストハウスで見るべきは、家具調度品である。「ここを始めるためにわざわざ買ったものというのはほとんどないな。僕らがそれまでにコレクションしていたものや、あるいは僕らが僕らのお祖父さんやお祖母さんから引き継いだものをそのまま使ったんだよ。そうしたらとても落ち着いた雰囲気になった」。そういうものを見ていると、僕はアメリカという社会のある種の健全さを認めないわけにはいかない。十八世紀に建てられた家を買って、自分の手で隅から隅まで改装し、そこに自分たちの手で集めた家具や調度品を飾り、自分たちが作った素朴な料理を出す。

ロンとスーには気負ったところが見受けられない。そこにあるのは過去というものをごく素直に引き継いでいるのだという心地の良さである。

「旅館っていうより、自分の家にお客を招待している感じなんだ。だからとくに広告もしない。部屋にはテレビも電話もない。みんなが来てくれて、ここの居間やら食堂やらで、自分の家みたいに寛いでくれたらいいんだよ」

「健全さ」という言葉がまさに言い当てているなと感心。
アメリカだけではなく、おそらくフランスやイギリスもそうなんじゃないかって気がするが、いずれにせよ、こういった「健全」な考え方を持った人が日本よりは多い気がする。もちろん日本にもいるわけだが。

そういう人に対して、憧れと軽い嫉妬を感じると同時に、こちらの世界から離れているという軽い異質感も感じてしまう自分がいる。

「ごく素直に引き継いでいるのだという心地の良さ」
というのもスっと心に入ってくる表現。

 

無人島・からす島の秘密

僕は何を隠そう、裸になって体を隅々までたっぷりと日に焼くのが大好きなのだ

うーーん、そういうのが好きかどうか、試したことがないからわからない人のほうが圧倒的に多そう。
ただ、想像するに、楽しそうではある。

もう完全にレイドバックしている

唐突に出てくる、この”レイドバック”という言葉。
知らなかったが、どうやら「リラックスする、のんびりやる」のlay backの過去形か形容詞的使いかたらしい。
勉強になった。

 

メキシコ大旅行

旅をする理由について。

つまるところ、その答えはひとつしかないはずだ。彼らは自分の目でその場所を見て、自分の鼻と口でそこの空気を吸い込んで、自分の足でその地面の上に立って、自分の手でそこにあるものを触りたかったのだ。

様々な表層的理由づけをひとつひとつ取り払ってしまえば、結局のところそれが旅行というものが持つおそらくはいちばんまっとうな動機であり、存在理由であるだろうと僕は思う。理由のつけられない好奇心、現実的感触への欲求。

深く考えたことなどなかったが、自分もそうなんだろうなぁ。

久しぶりにバックパックでメキシコに降り立ったときの感覚。

プエルト・バヤルタの空港に下りたって、リュックを肩にかけたときには、正直に言って「うん、これだよ、この感じなんだ」と思った。そこにはたしかに自由の感覚があった。
見渡すかぎり、ここには僕を知っている人は誰もいない。僕が知っている人も誰もいない。僕の持っているものはみんなリュックの中に収まっているし、僕が自分の所有物と呼べるのは、ただそれだけだ。

そう、この感覚。
この文章を読むだけで、不安と期待の両方が降りてくる。

メキシコのバスと、バスで流れるメキシコの歌謡曲について。

僕は毎日毎日、否応なしにメキシコ歌謡曲を聴かされることになった。そこには選択肢などというものは影もかたちも見えなかった。僕はバスに乗るたびに、そのカー・ステレオが故障していることを天に祈った。

でもカー・ステレオは絶対に故障していなかった。これは-これも声を大にして言いたいのだけれど-メキシコにおいては奇蹟的なことである。メキシコではいろんなものが常に故障している。僕の乗ったバスでも本当にいろんなものが故障していた。あるバスでは冷房が故障していた-暑くて暑くて気が遠くなりそうだった。あるバスでは座席がリクライニングになったきり戻らなくて、僕は歯医者で治療を受けているような不安定な恰好を何時間も続けていなくてはならなかった。どうしても窓が開かなかった、あるいは閉まらなかった。あるバスでは故障していないものがほとんどないくらいだった。クラクションは鳴らないし、ドアは閉まらないし、メーターはひとつも機能していなかった。これは誇張ではない。本当に速度計も、燃料計も、みんなばったりと見事に死んでいたのだ。でもカー・ステレオだけは元気に鳴っていた。ひどい音でほとんど歌詞は聞き取れなかったけれど、それでも音楽だけは鳴っていた。それを見たときに僕もとうとう諦めた。この奇妙な国では、あらゆる機械が死んだとしても、あらゆる理想やら革命やらが死んだとしても、何かしらの奇妙な理由によって、カー・ステレオだけは死なないのだ。

この人たちにとっては、沈黙というのは、メキシコ歌謡曲によって熱烈に埋められなくてはならない未完成な空白を意味するのだ。そんなわけで、メキシコのあらゆる白壁がメッセージやら広告やらで塗りつぶされているのと同じくらい丹念に、メキシコの沈黙は華やかなメキシコ歌謡曲によって埋め尽くされることになる。

そうとう村上氏が辟易としたことが伝わってくる。
いや、「正確には伝えようとしていることが伝わってくる」なのかもしれない。
その辟易さを伝える表現が村上節なのかなんなのか、リズムが良くて、スパーンと入ってくる感じが好ましい。
こんな私自身の擬音頼みの表現ではなくって。

そして、旅はフィナーレへ向かう。

十日間、理不尽な食中毒やら、絶え間のないメキシコ歌謡曲やら、自動小銃を抱えた真剣な人々やら、冷房の故障したバスやら、いくら蹴飛ばしても(僕は本当に真剣に蹴飛ばしたのだ)うんともすんとも感じない象のようにあつかましい割り込みおばさんに耐えながら一人でメキシコを旅行してみてあらためてつくづく感じたことは、旅行というのは根本的に疲れるものなんだということだった。これは僕が数多くの旅行をしたのちに体得した絶対的真理である。旅行は疲れるものであり、疲れない旅行は旅行ではない。延々とつづくアンチ・クライマックス、予想はずれ、見込み違いの数々。シャワーの生ぬるい湯(あるいは生ぬるくさえない湯)、軋むベッド、絶対に軋まない死後硬直的ベッド、どこからともなく次々に湧きだしてくる飢えた蚊、水の流れないトイレ、水の止まらないトイレ、不快なウェイトレス。日を重ねるごとにうずたかく積もっていく疲労感。そして次々に紛失していく持ち物。それが旅行なのだ。

僕はそのうちにふと思った。
僕という人間を疲弊させるさまざまなものごとを、自然なるものとして黙々として受容していくようになる段階こそが、僕にとって旅行の本質なのではあるまいか、と。
 
では、何故わざわざメキシコにまで疲弊を求めてやってこなくてはならないのかというと…
 
ドイツにはドイツの疲弊があるし、インドにはインドの疲弊があるし、ニュージャージーにはニュージャージーの疲弊がある。でもメキシコの疲弊は、メキシコでしか得られない種類の疲弊なのだ。

そして、「疲弊を重ねるごとに、少しずつメキシコという国に近づいていくような気がする」と。

疲れなきゃ旅じゃない。
うーん、疲れないほうがいい気もするが、そう言われりゃそうなのかな。。。

年をとればとるほど、幻想の幻想性がより明確に認識されればされるほど、我々が差し出すものの量に対して、我々が受け取るものの量はだんだん少なくなってくる

でもそれでも、昔に比べればずっと少なくなったとはいえ、幻想は訴えかけてくるし、若い頃の自分なら見ることができなかった、もしくは見ても見過ごしていたものもあろうはずだと。

歳を重ねるということはそういうこと。

シナカンタンというサン・クリストバル・デ・ラス・カサス近郊の村について。

シナカンタンの人々は、夢というものに対して非常に強い関心を寄せており、ある場合には(その夢が共同体の運命に影響を及ぼす可能性を有しているような場合には)それは個人的な夢であることをやめて、共同体ぜんたいの中で共有される夢となる。そのような場合には、シャーマンが共同体の長に助言を与え、村人が力をあわせてそれにあたる。そういうことが今でも、現実にここではおこなわれているのだ。

シナカンタンの町で行なわれていたサント・オッターボというお祭りを見ながら。

同じことが何度も何度も単調に繰り返され、時間だけがゆっくりと流れていく。でも教会の庭に腰をおろして、子供たちと一緒にそういう光景をじっと見ていても、僕としてはべつに退屈もしないし飽きもしなかった。というか、そのうちにある種の懐かしささえ感じてくることになった。そういえば昔は日本でも、お祭りといえばこんな感じののんびりしたものだった。お祭りというのは、ぱっと盛り上がってぱっと終わるというものではなくて、朝から延々と続く長い過程を楽しむものであった。我々はある場合には、見事な祭典よりはむしろ、いつ果てるともなく引き延ばされたアンチ・クライマックスのほうを好んだ。

わかるような、わからないような。
一つ言えるのは、村上春樹は「アンチ・クライマックス」という言葉が好きなんだな。

村上氏は、メキシコの田舎に他では感じない親近感を感じたという。

これまでいろんな国を旅していろんな田舎を目にしてきたけれど、そういう親近感のようなものを感じたのは初めてのことだった。

これは、アメリカの東部で暮らしていることもあるという。

合衆国で暮らしていると、居心地がいい悪いには関係なく、やはり自分は余所で暮らしているという思いがある。それは社会的にどう、人種的にどうという以前の問題である。それ以前に我々を取り囲んでいる情景が視覚的に「余所」なのだ。そこでは情景が、潜在的記憶として我々の心にじかに、理不尽に訴えかけてくるということはまずない。

僕がチアパスの山のなかでふと感じたのは、もっとずっと遠くのほうまで連綿とつながっていて、できあいの言葉ですんなりとは表わすことのできない種類の共時的心持ちとも言うべきものなのだ。

合衆国では感じず、メキシコの田舎で感じる。
これは同じ日本生まれ日本育ちでも、時代・エリアといった、育った環境によって変わるものだろう。
小さい頃から、アメリカの基地内に出入りする機会があった自分は、今もアメリカっぽい景色を見ると、懐かしさを感じるところはあるもの。

 

讃岐・超ディープうどん紀行

小懸家(おがたや)

店に入るとまずおろし金と長さ二十センチくらいの大根がテーブルに運ばれてきた。なんだなんだこれは、と思ってまわりを見ると、客がみんな真面目な顔をしてこしこしこしこしと大根をおろしているのである。しょうがないので、僕も大根を右手に持ち、おろし金を左手に持って、こしこしこしこしと大根をおろした。

「こしこしこしこし」がなんかツボ。

僕はこの取材中に十軒ちかくのうどん屋に入ったけれど、ほとんどの店に味の素が置いてあった。必須アイテムと言ってもいいだろう。香川県の多くの人はうどんに味の素をかけて食べるのである。

うどんに味の素。ところかわれば…

どうしてうどん屋に醤油が置いてあるのか疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。これは、うどんにかけて食べるのである。つまり冷たいうどんが運ばれてくると、客はそこにじゃばじゃばと醤油をかけてそのまま食べてしまうのである。これは「醤油うどん」と呼ばれる。
せっかく四国まで来たのだからと思って、僕もこのディープな醤油うどんを試しに食べてみたのだが、これはけっこういけた。シンプルにして大胆、蕎麦でいうとちょうど「もり」の感覚である。古くなってのびてしまったようなうどんでは無理だが、打ちたての勢いのあるうどんに醤油をかけて、葱だけを薬味にしてつるつるつると食べる美味さには、思わず膝を打ってしまいそうな説得力がある。

膝を打つようなうどん、食べたい。

中村うどん

ここは文句なしに凄かった。ディープ中最ディープのうどん屋である。ひどく交通不便な場所にあるうえに店の場所もわかりにくいので、一般旅行者にはまったくお勧めできないけれど、マニアックにうどん好きな方には是非試していただきたいと思う。苦労して行くだけの価値のあるうどん屋である。

村上さんイチオシ!

まずだいいちにこの店はほとんど田圃のまん中にある。看板も出ていない。入口には一応「中村うどん」と書いてあるのだが、それもわざと(だと思うけれど)道路から見えないように書いてある。
僕らはタクシーで行ったのだが、運転手さんも「へえ、こんな場所にうどん屋があったんやなあ。知らんかったなあ」と驚いていた。

「中村うどん」を経営なさっておられるのは中村さん親子である。でも僕が店に入ったときには店の中には親の中村さんも子の中村さんもいらっしゃらなかった。お湯をはった大きな釜の前で、おっさんがひとりでしょっしょっしょっとうどん玉をゆがいているだけだった。ぼくはこのおっさんがたぶん中村父子のどちらかだろうと思って声をかけたのだが、「ちゃうちゃう、わしは客や」と言われた。ここの店では客が並べて置いてあるうどん玉を勝手にゆがいて、だし汁なり醤油なりをかけて食べ、勝手に金を置いて出ていくのである。すげえところだなと思ったけれど、郷に入れば郷に従えで、僕らも勝手にうどん玉を自分でゆがいてだし汁をかけて食べる。丼を持って外に出て(店の中は狭いので)、石の上に腰掛けてずるずるとうどんを食べる。

「ちゃうちゃう、わしは客や」が効いてるな~。これがあるのとないのでは、イメージに浮かぶ絵が変わる。

そうこうするうちに中村父が新しいうどんを打ち終える。そしれそれをさっとゆがいて、葱と醤油をかけて食べさせてもらう。これは見事に美味しい。さっき食べてうどんもかなり美味しいと思ったけれど、この打ちたてのうどんの香ばしさと腰の明快さに比べたら、ランクがひとつ違う。このうどんは今回の取材旅行で食べた沢山のうどんの中でもまさに珠玉のひと玉であった。「中村うどん」に行って、できたてのうどんに巡り合えた人は幸せ者と言うべきであろう。

「中村うどん」ではうどんは日本の足で踏んで捏ねる。捏ねる機械がないと保健所は営業許可をくれないから、開店のときにはいちおう中古の機械を入れて置いておくけれど、その検査が終わってしまうとあとは機械なんか使わないで、ずっと人間の足で踏んで作っている。「そうせんと美味ないねん」と中村子はきっぱりと断言する。はっきり言って、ここの父子は見かけも発言内容も営業方針も、かなり偏屈で過激である。でもうどんは文句なく美味しい。

村上さんも書いているが、標準語ではなく西の言葉で「美味(うも)ないねん」ってのがいい。
「美味(うま)ないねん」とも違う。

がもううどん

純粋にロケーションから言うと、僕はこのお店がだんぜん気に入っている。このお店は文字通り田圃の真ん前にある。店の外に置かれた縁台に腰掛けてうどんを食べると、目の前に稲田がざあっと広がっている。季節は秋だから、稲の穂が風にさわさわと揺れている。すぐ前には小さな川が流れている。空はあくまで高く、鳥の声が聞こえる。

山下うどんご主人に聞いた話から。

戦後は国内物の小麦が減ってしもうて、味も変わりましたなあ。私が子供のころはそのへんでとれた小麦を碾いてうどん作りよったけど、これは美味かったです。今では小麦のほとんどはオーストラリア産のものです。
 
しかし、輸入物といっても、日清製粉は香川県にだけは特別な配合をした小麦粉を出荷している。というのは香川県の人はことうどんに対してはきわめて厳しい基準を持っているので、普通の全国向けの配合のものではユーザーからクレームがくるのだそうだ。

これも当然知らなかった。
さすが、「うどん県」と名乗るだけのことはある。

 

ノモンハンの鉄の墓場

僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、そのような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争から、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱えているある種のきつい密閉性はまたいつかその過剰な圧力を、どこかに向けて激しい勢いで噴き出すのではあるまいか、と。

この感覚は常に国民が持っておくべきなのではないか。
共感した。
どんな時代であれ、国家なり、権力者の暴走への監視、抑止への意識を持つべきだろう。

もしこれ以上中国の大地を走る車の数が増えたとしたら、そこに現出するのはおそらく桁違いの悪夢だろう。だって今のままでももう充分「通常の意味での」悪夢と呼ぶに相応しいものなのだから。しかし人々がとくにそれを悪夢として捉えている様子もないところからみると、このままいけば遠からずして中国全土が、ヴェトナム国境から万里の長城にいたるまで、交通渋滞と大気汚染と煙草の吸いがらとベネトンの看板で埋めつくされてしまうのは、大いなる歴史的必然というか、まず間違いのないところではないか。

村上さんお得意の、辟易さを伝えるコミカルな文章。

この虎は生まれて二カ月ということだが、名前はまだついていないらしい。僕が「名前はないのか?」と尋ねると、「お前はアホか。虎にいちいち名前なんかつけるか」といううつろな顔で観られた。よくわからないけれど、中国では動物園の虎には名前をつけないのだろうか。たしかパンダには名前をつけていたと思うのだけれど。

うつろな顔が容易に目に浮かぶ。

僕はいろんな中国の都市を旅行してつくづく思ったのだけれど、中国人の建築家には、建てたばかりのビルをあたかも廃墟のように見せる特異な才能があるようだ。たとえば外国人向けの高層ホテルに入ると、もちろん全部が全部ではないけれど、我々はそこで数多くの荒廃を目にすることになる。エレベーターのパネルはぺろっと剥がれかけているし、天井の隅には意味不明の穴が開いているし、バスルームのレバーは半分くらいもげてしまっている。電気スタンドの首は折れて垂れ下がっているし、洗面台の栓は消滅している。壁には心理テストみたいな雨漏りの染みがある。それで「これは古いホテルなんですね?」と聞くと、「いいえ、いいえ、去年建てたばかりですよ」という返事が返ってくる。

見事な皮肉。

僕はまだそのときは中国旅行の初心者だったので、進行方向に向かって窓際の席に座ってはいけないという鉄則を知らなかったのだ。中国の人はじつに気楽に窓からあらゆるものを捨てるので、窓を開けて窓際に座っていると、思いもよらぬ災難にあうことがある。

中国に限った話ではないのだろう。覚えておこう。

武闘派型筋肉質の中年の女医さんにわあわあとわけのわからないことを大声で怒鳴られながら目を洗ってもらい、ゴミを出してもらう。なんだか「戸塚ヨットスクール」に放り込まれたみたいでけっこうおっかないけれど、それさえ我慢すれば、待ち時間ゼロで目薬までもらって、料金は三元(四十円くらい)である。とにかくも何もなく、圧倒的に安い。不思議に思って「どうしてこんなに診察の料金が安いのに病院ががらがらにすいているんでしょうね?」と中国の人に訊いてみると、例の<何を訊くんだ、お前は?>というすごくけげんな顔をされた。「これ、すいてますか? そうですか。こんなものですよ。だって、中国人はそんなに病院には来ないですよ」ということだったが、本当なのだろうか?
いろんなことを次から次へと経験すればするほど、中国という国のことが僕にはだんだんよくわからなくなってくる。

ここでも、怪訝な顔が容易に目に浮かぶ。

「難攻不落」とヘルマン・ゲーリングが豪語した、ナチスが東ベルリンに作った地下要塞を見て、「歴史が証明しているとおり、難攻不落なものなどこの世界のどこにもないのだ」と。
歴史に学ばない人間。歴史を越えようとする人間。

僕が中国側のモンゴルでも、モンゴル国においてもいちばん驚かされたのは、第二次世界大戦やノモンハン戦争の痕跡が、いたるところで当時とほとんど変わらないかたちで残されていることだった。それも大方の場合、原爆ドームみたいにきちんとした目的のために「保存されている」のではなく、ただほうったらかしになってそこに残っているのだ。

土地の広さの問題もあるが、五十年という年月の流れ方か、人によって民族によって国家によって違うのだということが想像できる。

当時の日本軍のバカさ加減について。

記録を読めば、ノモンハン戦争で戦った日本軍の兵士の多くははるばるハイラルから完全武装で、徒歩で国境地域まで約二百二十キロの荒野を行軍してきたのである。ものすごい体力というか、持久力というか、そういうのを聞くと昔の人はすごかったんだなと感心してしまう。でも「歩兵に通常期待されている行軍速度は一時間六キロ」ということだから、そんな行軍が休みもなく四日も五日も続いたら、いくら丈夫とはいえ、ほとんどの兵隊は戦闘に入る前に疲労困憊の極に達していたに違いない。おまけに彼らは見渡すかぎり何もない草原の真ん中で、慢性的な水不足に悩まされていたわけだから、これは本当に大変だったのだろうと思う。

実際問題としてその当時の日本軍は、民間の車両を徴用してかき集めても、兵士を輸送するだけの充分な数の自動車を揃えることができなかったのだから仕方ない。ない袖は振れないのだ。徹底した補給ルートを築き上げてからあらためて組織的攻勢に移ったソビエト軍とは、戦略についての発想そのものがべつものだったのだ。

実際に現場に来てみると、その行為が意味する現実的なすさまじさを前にして唖然として言葉を失うくらいだし、またそれだけ当時の日本という国家がどれほど貧しかったのかということが身にしみてわかる。日本という貧しい国家が生き残るために、中国というもっと貧しい国家を「生命線を維持する」という大義のもとに侵略していたのだから、考えてみれば救いのない話である。

結局のところ、物質的にも、精神的にも、日本は貧しかったということだろう。
今からすると、精神的にはわからないが、物質的には豊かになっているから、想像しにくいが。

鉄条網とか壁とかそういう目に見える国境線があるわけではないのだが、なにしろ見渡すかぎり遮るものもなく、逃げ隠れすることもできない草原だから、国境を越えた人間は目のいいモンゴル軍の監視兵に見つかってすぐにつかまってしまう。だから鉄条網なんてとくに必要ないのである。

このあたりはもともとは、遊牧民が家畜を連れて季節ごとにあっちからこっちへと移動する「誰のものでもない」土地だった。そこで戦闘がおこなわれなくてはならなかったほとんど唯一の理由は、軍の面子と、「あわよくば」という冒険主義的な思惑だけだったのだ。

ジープは愛想もクソもないロシア製の軍用ジープである。四ドアだが後ろも前も窓が開かない(開くのは三角窓だけ)うえに、車内にガソリン・タンクをいくつか積んでいるのですごく臭いし、にもかかわらずみんなすぱすぱ煙草を吸う。危険なうえに、非常に息苦しい。乗り心地も性能も三菱パジェロなんかに比べると、全自動洗濯機とかなだらいくらいの差がある。

例えツッコミ的。

しかし現地の人々は日常の足として日本製のスマートな四輪駆動車よりは、むしろこういう単純で無骨な車を好むようだ。なにしろ道路状態がほとんどの局面において破滅的なので、「あればたしかに便利かもしれないけれど、とくになくてもいいもの」(つまり現代の高度資本主義における最大の商品)があれこれついていないほうが故障が少なくて使いやすいのだ。自分では手の施しようのないブラックボックスみたいなものがまったくないし、すべては剥き出しだから、もしどこかが故障してても自分の手で簡単に直せるし、ガソリンやらオイルやらラジエーター液やらにあれこれ贅沢をいわない。
 
草原の真ん中で真冬に突然車が故障したら、下手をすればそのまま死ぬしかないというような実にシビアな環境なので、このへんのドライバーの世界観に、渋谷あたりで土曜日の夜にランクルを流しているお兄さんのそれとかなり差があったとしても、それはあながち不自然ではないだろう。

自分も一度モンゴルを訪れたことがあるが、おっそろしい悪路をロシア製の四駆でぶいぶい進んでいたな。
そこは変わらない。
というか、日本車が高過ぎるってこともあるとは思うんだが。

基地の中だから十時消灯、酒はぜったいに駄目ということだったが、何のことはない、兵隊はみんな真夜中過ぎまで起きていて、電灯をつけてわいわい酒を飲んでいた。
モンゴルの軍隊はむずかしいことはいわずに、けっこう楽しくやっているのかもしれない。いずれにせよ、この国で酒を勧められて断る人はまずいないみたいだ。軍隊であろうが、消灯時間後であろうが。

親近感が湧く国民性。
だからこそ相撲で日本に渡ってくる若者も多いのだろうか。

それ以前には軍事用の仮設橋を別にすれば、この河には恒久的な橋というものがひとつもなかった。村人は馬に乗って浅瀬を横断するし、冬場は凍結してその上を渡れるので「橋なんかなくてもとくに不都合はないのだが」ということだった。たぶん地元住民の便宜をはかるというよりは、軍事用の車両を通行させる目的でこの橋は作られたのだろう。もっとも見ていると、人間よりは動物の方がはるかに頻繁にこの橋を利用している。橋の真ん中で牛の群れがみんなでだらだらとふて寝をしていて、そいつらを追っ払って橋を渡りきるのにけっこう時間がかかった。

ロシアはグラスノスチによって、これまで隠されていた様々な歴史的資料を公開しているわけだが、それによればハルハ河戦争がこれまでソビエト側の主張していたようなソビエト・モンゴル連合軍の「圧倒的な輝かしい勝利」ではなく、その勝利を得るために彼らが払わなくてはならなかった犠牲は、日本軍のそれに負けず劣らず深刻で悲痛なものであったことがわかる。

その後、時間が経って、2015年現在はどう把握されているのだろうか。

モンゴル人が狼をみつけた時の話。

モンゴル人は狼をみつけると、必ず殺す。ほとんど条件反射的に殺す。遊牧民である彼らにとって、狼というのは見かければその場で殺すしかない動物なのだ。
運転者は「行くか」も何もなく、さっさと道を外れてジープを草原の中に乗り入れる。チョグマントラ中尉は座席の下から馴れた手付きでAK47自動小銃を取り出し、そこにマガジンをセットする。そしてジープのドアを開けて身を乗り出し、狙いを定めて単発で、逃げる狼を撃ちはじめる。草原の真ん中で聞くAK47の銃声は「ぱあん、ぱあん」という乾いた小さな音で、想像したような凄みはあまりない。むしろそれは非現実的に聞こえる。どこかずっと遠くの世界でおこなわれている、僕には関係のないものごとの営みのように感じられる。
 
狼の動きは素早く、なかなか弾はあたらない。かすりもしない。狼はジープとの距離を計算し、小回りのよさを利用して、さっさっと向きを変えながら逃げる。
しかし、最初から狼に勝ち目はない。狼のフットワークはいかにも敏捷でクレバーだが、残念ながら彼らにはそれに見合うだけの持続力というものが備わっていない。
遮蔽物も溝も起伏も木立も何もないまっ平らな大草原の真ん中では、狼は四輪駆動車にはまず勝てない。自動車は決して疲れないからだ。
十分で狼は完全にへたってしまう。その肺はもう破裂寸前なのだ。狼は立ち止まり、肩で大きく息をし、覚悟を決めたように僕らのほうをじっと見つめる。
 
チョグマントラは運転手にジープを停めさせ、ライフルの銃身をドアに固定し、照準を狼にあわせる。彼は急がない。狼がもうどこにも行かないことを彼は知っている。そのあいだ狼は不思議なくらい澄んだ目で僕らを見ている。いろんな強烈な感情がひとつに混じりあった目だ。恐怖と、絶望と、混乱と、困惑と、あきらめと、……それから僕にはよくわからない何か。
 
一発でその狼は地面に倒れる。僕はそのやせっぽちの狼が、鉄の車と鉛の弾丸からなんとか逃げ切れることを内心祈っていたのだが、結局奇跡は起こらなかった。
 
ナスンジャングルがポケットからよく切れる狩猟用ナイフを取り出し、狼の尻尾を要領よくすっぱりと切り取る。そして切り取った尻尾を、狼の頭の下に敷く。これはモンゴル人の狩猟のおまじないのようなもので、「またこのように獲物に恵まれますように」という意味を持っている、ということである。

このくだりは緊張感があって、読み応えがあった。

ノモンハンへの旅を終えて。

時間の経過とともに、僕は何となくこう考えるようになった。その振動や闇や恐怖や気配は外部から突然やってきたものではなく、むしろ僕という人間の内側にもともと存在したものだったのではなかったかと。何かがきっかけのようなものをつかんで僕の中にあるそれを激しくこじ開けただけだったのではないかと。
 
僕にはうまく表現できないのだけれど、どんなに遠くまで行っても、いや遠くに行けば行くほど、僕らがそこで発見するものはただの僕ら自身でしかないんじゃないかという気がする。狼も、臼砲弾も、停電の薄暗闇の中の戦争博物館も、結局はみんな僕自身の一部でしかなかったのではないか、それらは僕によって発見されるのを、そこでじっと待っていただけなのではないだろうかと。
でも少なくとも僕はそれらがそこにあり、あったことを決して忘れないだろう。忘れないこと、それ以外に僕にできることはおそらくなにもないのだから。

この考え方は、多くの人に共感されるのではないだろうか。
自分の中にあったものが、旅先で表面に出て来る。

 

アメリカ大陸を横断しよう

たっぷりと時間をかけて車でアメリカ大陸横断旅行をしてみたいと、前々から考えていた。というか、もっと正確にいうならば、ずっと夢見ていた。「そこには何か目的があるのか?」と訊かれても困る。特別な目的なんてなにもないからだ。

そんなわけで、僕は、二週間を超えるアメリカ横断の長旅に出かけることになった。道筋は有名な南回りの「ルート66」コースではなくてあくまで渋い玄人好みの(かどうかは知らんけれど)北回りのコースである。

それもたっぷりと時間をかけて、味けのないインターステートよりはむしろローカルなバック・ハイウェイ中心に旅行をしたい。

これはたまらない。まさに自分自身もいつかは来るまでアメリカ横断を目論んでいる一人だから。

「そんな旅行にはとてもつきあっていられないから、私は東京に戻ってのんびりしているわ」といううちの奥さんをボストンのローガン空港から成田行きの飛行機に乗せて(かなりまともな考え方だ)、その足でいよいよ西海岸へと向かう。僕らの目的地は、約八千キロの彼方にあるロスアンジェルスのロングビーチである。

まずマサチューセッツからアップステート・ニューヨークを抜けて、ナイアガラのあたりからいったんカナダにはいる(ナイアガラって、何度行ってもうるさいところだ)。トロントに住んでいる知人宅を訪れるためだ。

カナダから国境を再び超えて、デトロイトへ向かう。そしてオハイオ、インディアナを通ってシカゴに行く。ここまでは大して面白いことは何もない。はっきり言ってしまえば退屈きわまりない旅である。ただ前を見てアクセルを踏んで、過ぎ去っていく非印象的な光景を眺めているだけだ。一日の平均走行距離はおおよそ五百キロ。二人で交代で運転し、どこから眺めても非印象的なモーテルに泊まり、朝にパンケーキを食べ、昼にはハンバーガーを食べる。毎日が同じことの繰り返しだ。モーテルの看板だけが変化する。

この、人の夢を見事に打ち砕くくだり。
でも、そう。よく考えればわかる。
退屈に決まっているんだ。

旅がようやくカラフルになり始めたのはシカゴを通り抜けて、ウィスコンシン州に入ってからである。いや、「カラフル」という表現は正しくないかもしれない。実際の話、そこには全然カラフルな要素なんてなかったからだ。正確に表現するならむしろ僕らの旅行をとりまく環境は「より退屈になった」というほうが真実に近いかもしれない。しかしその退屈さは、それまでの地域が我々に与えてくれた退屈さとは違った種類の目新しい退屈さであり、それが僕にとってはなかなか刺激的と呼べなくもなかったということである。
 
まず車のラジオから流れる音楽の種類ががらりと変わってくる。カントリー・ミュージックのステーションが圧倒的に多くなり、ジャズやラップ・ミュージックはどれだけカー・ステレオのサーチボタンを押しても聴こえてこない。
 
モーテルの部屋でテレビの朝のニュースをつけると、O・J・シンプソン裁判の進展ぶりのお知らせのあとで、「今日の家畜の値段」を延々と聞かされる羽目になる。何々種の何歳牛の値段がいくらで、何々種の豚一頭の値段がいくらでというようなことを、年輩のニュースキャスターがまじめな顔で淡々と読み上げる。ニューヨークのニュースが交通情報を流したり、ハワイのニュースが波の状況を流したりするのと同じように。読み上げる数字によっては、キャスターはちょっと感心したり、顔をしかめたりする。なるほどね、アメリカというのは真剣に大きな国だったんだなとつくづく実感する。
 
夜にテレビをつけると、カントリー・ダンス大会というのをよくやっていた。カウボーイハットをかぶって彫り物入りのブーツを履いた沢山の男たちが、綿菓子みたいにもわっと髪をふくらませた派手めのお姉さんたちと、カントリー音楽にあわせて、ステップを揃えて楽しそうに踊っているのだ。ただそれだけのことなのだが、これはいったん見だすと、不思議なくらいけっこう熱心に見てしまうものである。どうしてだろう。

中西部は自分も足を踏み入れたことがない未知の世界。
そんなにカントリー色が強いというのは驚き。

車の窓の外に見える光景は見事ながかりに--おそらく英術的と言えるまでに--退屈なものになってくる。そこに存在するのは、牧場と農場とときおりの看板だけだ。
 
道はおおかたの場合、トルストイの小説に出てくる正直な農夫の魂のごとく、痛々しいまでにまっすぐであり、視力さえよければものすごく遠くまで見渡せる。でもものすごく遠くまで見渡せても、とくに心楽しくはない。なぜならものすごく遠くに見えるのは、同じような農場と牧場とときおりの看板だけだからだ。
 
たまにすれ違う車の大半は家畜運搬車かピックアップ・トラックである。ボストンからアイオワにやって来ることは、正直な話、東京からボストンにやって来るより遥かに大きなカルチャーショックを僕にもたらしたような気がする。

牛もなかなか可愛い動物ではあるけれど、あまり沢山いると、やはり見飽きてくる。世の中のたいていのものごとにはそういう傾向-沢山ある(いる)と見飽きる-があるが、牛もやはりその例外ではない。ただ見飽きるというだけではなく、そのうちに牛を見るという行為に真剣に疲れてくるようになる。どうしてこんなにいっぱい世の中に牛がいなくちゃならないんだろうと思って、イライラするようになる。
 
そんな光景が毎日毎日どれだけ車をとばしても、いつ果てるともなく永遠に続くのだ。まるで前に見た牛が先回りしてまた僕らを待っているんじゃないかという、ちょっと無意味な錯覚に襲われるようにさえなう。
 
しかしすげえところに来ちゃったよなあ、と思う。結局のところ、僕がこれまでに見ていたアメリカというのは、この国のほんの一部分にすぎなかったのだ。

村上さんが、たびたびすげぇと思うのは、いずれもマイナスな点というのが残念。

モーテルとレストランについて。

風景もかくのごとく退屈だが、三度三度食事をとるレストランも、毎晩泊まるモーテルも、それに負けず劣らずまた見事に退屈な代物である。どれもこれもあまりにも無個性に似通っているので、そのうちにどれがどれだったか、ほとんど区別がつかなくなってくる。
僕は旅行のあいだずっとトラヴェル・ログをつけていたのだが(どんな旅行に行っても僕は必ず毎日トラヴェル・ログを丹念につける。僕は人間の記憶というものを-その中でもとりわけ僕の記憶を-まったくあてにしていないから)、アメリカ中西部のモーテルとレストランについてはさすがに、途中からもうなにも書くべきことを思いつけなくなった。だから今手帳のページを繰っても、書いてあるのはほとんどモーテルの名前と部屋代だけだ。そこには特徴というものがないのだ。いや、たとえ特徴があったとしても、その特徴には特徴的意味がないのだ。
 
でもただひとつだけ、僕らはそのような無名的モーテルから別の無名的モーテルへと泊まり歩きながら、アメリカにおけるモーテルについての貴重な教訓を学んだ。それは「温水プールのついているモーテルには泊まるな」ということである。
 
なぜならまず第一に、街道モーテルの温水プールなんて、狭くて水が汚れていて、とてもまともに泳げた代物ではないからだ。第二に、建物の中に温水プールがあるために、建物じゅうが湿気を含んでもわっとしているからだ。
 
それ以外に、モーテルについて語るべきことはほとんどないように僕には思える。
 
レストランについて語るべきことはもっとない。いったいそこで何を食べていたのか―生命を維持するためにきっと何かを食べていたはずなのだが-僕にはほとんど思い出せない。

友人のドワイトさん一家と山の上に雪遊びに行ったときの話。

僕は彼に「あなたにとって世の中でいちばんいちばん大事なものは何ですか?」と尋ねてみた。「家族だね」とドワイトは一言で言った、「家族ほど大事なものはない。それがすべてのものごとの基礎だ」。

この辺りは、アメリカらしいなと思う。
もちろんアメリカ人家族がすべてそうだとは思わないし、日本でもそう思っている家族は多いだろうが。
アメリカの象徴的な回答だなと。

しかしユタにいるあいだは酒が飲めなくて弱った。宗教的な理由で、州全体が人に酒を一滴も飲ませないようにきっちりとできているのだ。ついでながらコーヒーもほとんど飲めない。
 
だいたい日中はすごく暑いから、夕方が来ると冷たい生ビールをぐっと一杯飲みたくなる。でもどこかに入ってビールを注文するということが簡単にできない。町には酒屋だってない。レストランもまず酒を出さない。だからしょうがなくアイスティーをがぶがぶと飲むしかない。

ユタ州の宿泊先やその近所でアルコールが飲める店を探したがダメだった時の話。

しょうがないのであきらめて、アルコール抜きの味気ない夕食を食べた。そのあとで車の中をひっくりかえして調べてみたら、数日前にガソリンスタンドで買ったまま置きっぱなしになっていた、馬の小便のように生温かいバドワイザーの缶が一本見つかったので、それをホテルのアイスメーカーの氷で冷やして、ふたりで半分ずつわけてちびちびと飲んだ。切ないながら、これはもう最高にうまかった。
 
州境を越えてアリゾナに入り、しけた砂漠の真ん中にあるしけた町の、最初に目に付いたしけたバーで冷えたバドワイザー・ドラフトを注文してごくごくと飲んだときは、やはり正直に言ってほっとした。この罰当たりな世界の、避けようとして避けがたい現実が、僕のからだにじわじわとしみこんでいった。リアルにクールに。うむ、世の中はこうでなくっちゃな、と思った。

「世の中はこうでなくっちゃな」に安心させられる。

 

神戸まで歩く

この話だけは、村上さんが親しんだ街の話だし、震災の後ということで、他の話と異なり、かなりウェットな印象。

甲子園球場は僕が子供だった頃とほとんど同じだ。まるでタイムスリップしたみたいな懐かしい違和感-奇妙な表現だが-を、僕はひしひしと感じることになる。球場で変わったのは、水玉模様のタンクをかついだカルピス売りがいなくなったこと(どうやら世間にはカルピスを飲む人があまりいなくなったみたいだ)、それから外野スコアボードが電光表示になったことくらいである。グラウンドの土の色も同じ、芝生の緑色も同じ、阪神ファンも同じ。地震があっても革命があっても戦争があっても、何世紀たっても、阪神ファンの姿だけは変わらないのではあるまいか。

カルピスか。昔はスポンサーか何かだったのだろうか。
それとも普通に人気だったのだろうか。

それから一服して、ポケットに入れてきたヘミングウェイの「日はまた昇る」の続きを何ページか読む。高校時代に読んだ記憶があるのだが、ふとした経緯でホテルのベッドの中で再読することになり、すっかり夢中になってしまった。どうして昔はこの小説の素晴らしさがわからなかったのだろう。そうい思うと、なんだか不思議な気がする。たぶんなにか別のことを考えていたのだろう。

「日はまた昇る」読んでみよう。

そう、ひとつだけ確実に僕に言えることがある。人は年をとれば、それだけどんどん孤独になっていく。みんなそうだ。でもあるいはそれは間違ったことではないのかもしれない。というのは、ある意味では僕らの人生というのは孤独に慣れるためのひとつの連続した過程にすぎないからだ。

結婚してようがしてまいが、愛する人がいようがいまいが、子供がいようがいまいが、年をとればどんどん孤独になる。
そういうものなのかな。

とくにこれといってやりたいことも思いつかなかったので、街に出て目に付いた適当な映画を見る。感動的とは言えないにしても、それほど悪くはない映画だ。トム・クルーズ主演。身体を休め、時間をやり過ごす。人生の中の二時間が経過する。映画館を出るともう夕方近くになっている。散歩がてら山の手の小さなレストランまで歩く。ひとりでカウンターに座ってシーフード・ピザを注文し、生ビールを飲む。一人の客は僕しかいない。気のせいかもしれないが、その店に入っている僕以外の人々はみんなとても幸福そうに見える。恋人たちはいかにも仲が良さそうだし、グループでやってきた男女は大きな声で楽しそうに笑っている。たまにそういう日がある。

あるある。むしろそうじゃない日のほうが少ない。

 

辺境を旅する

あとがき的な章。

今の時代に旅行をして、それについて文章を書く、ましてや一冊の本を書くというのは、考えだすといろいろとむずかしいことですよね。ほんとにむずかしい。だって今では海外旅行に行くというのはそんなに特別なことではありません。
 
過度の思い入れとか啓蒙とか気負いとかを排して、いわば「いくぶん非日常な日常」として旅行を捉えるところから、今の時代の旅行記は始まらざるを得ないんじゃないかな。

気負いがないのはまさに本作にあてはまる。
だから読みやすい。

考えてみれば、旅行記というものが本来的になすべきことは、小説が本来的になすべきことと、機能的にはほとんど同じなんです。たいていの人は旅行をしますよね。たとえば、たいていの人が恋愛をするのというのと同じ文脈で。でもそれについて誰かに語るというのは、簡単なことじゃありません。こんなことがあったんだよ、こんなところにも行ったんだよ、こんな思いをしたんだよ、と誰かに話をしても、自分がほんとうにそこで感じたことを、その感情的な水位の違いみたいなものを、ありありと相手に伝えるというのは至難の技です。
 
でもそれをなんとかやるのが、当然ながらプロの文章なんです。そこにはテクニックも必要だし、固有の文体も必要だし、熱意とか愛情とか感動とかももちろん必要になります。そういう意味では旅行記を書くことは、小説家としての僕にとっても非常に良い勉強になりました。

こういう視点で、本作を含め他の旅行記を読むと、そのむずかしさがわかってくる。

とにかく、共感する点、感心する点が多い一冊だった。
読めてよかった。


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