【書評】 自白/和久峻三著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

連日の、一度読んだっきり本棚で眠ったままで内容も覚えていない本を処分するための読書。
しかも連チャンで法廷物。

39 【刑法第三十九条】』と異なり、裁判官目線で物語は進行。
弁護人、検察官による攻防や裁判の進行にたっぷりと枚数を割いている。

学生時代に法律を学んだものの、それっきり法律とは無縁に過ごしてきた自分にとっては、特に法廷内外の手続き的なところが新鮮に映った。
もちろん10年ほど前に一度読了しているのだが、まったく記憶にないもので新鮮そのものなのだ。

以下、ネタバレあり。

 
前半は、クリーンハンドの法則ないしは違法収集証拠の問題で、その論点自体は法学生にとっては目新しくはないトピック。

後半は前半の種明かし的要素もありつつ、復讐劇もありつつ。
ところどころ裁判官のプライベートな面もはさまれている。

前半の弁護人・検事感の攻防、裁判官三人での合議の在り様など、臨場感ある描写に引き込まれた。
後半の展開自体も面白くはある。
社会的地位がある病院の院長といえど、判決が出ない被告人の段階でひどい扱いを受けるみじめさも伺い知れた。
失踪宣告の取消に時効がない点も勉強になった。
しかし読後にどうもピンと来ない感覚が残った。

読んでいる最中はこの釈然としない気持ちの原因はわからなかったが、おそらくその原因はこうだ。

被害者の父親に犯人だと思われて殺された学生二人。
彼らの自業自得な面があるからそれはそれで致し方なくはある。
しかし問題はその娘だ。
父親の愛情が若く妖艶な後妻に向けられているのを良く思わず、誘拐に途中から加担し、顔見知りでもある学生二人が殺されてもその事への後悔の念も感じられず、むしろ父親が自分のために殺人まで犯したことに涙を流すという神経。
いや、この娘の神経が理解できないというのではない。
この神経を持つ娘の精神の状態をもっと丁寧に描写してもらわないと、作品全体としてアンバランス過ぎると感じたのだろう。

この作品を読んで久しぶりに法廷に傍聴をしに行きたくなった。
とんでもない世界ではあるが、そこには生々しい現実がある。

以下、特に法廷での手続き的な点などで記録しておきたい箇所をメモ。
もともとは昭和50年代に書かれた作品なので現在とは異なっているものもあるかもしれないけれど。

冒頭陳述のやり方は、必ずしも一定していない。被告人が、いつ、どのような状況の下に、何をしたかについて、長々と物語風に叙述することを許す場合もある。世間ではむしろ。それが冒頭陳述なのだと思い込んでいるふしがなくはない。

しかし、物語形式のだらだらした冒頭陳述を検察官に許すと、冒頭陳述について規定した刑事訴訟法第296条の但書「証拠とすることができず、又は証拠としてその取調を請求する意思のない資料に基いて、裁判所に事件について偏見又は余談を生ぜしめる虞のある事項を述べることはできな」に抵触しかねない。

警察の調書などを「不同意」にされると、検察官としては、それらの証拠書類を法廷に提出するのを差控えなければならず、犯罪事実のほとんどすべての事項について、証人を法廷に喚問して、いちいち証言させなければならない。

そこが弁護人のつけ目でもあった。検察側の証人を徹底的に弾劾して、完膚なきまでに叩きのめし、その証言を台なしにして、思惑通り被告人の無罪を勝ちとろうというのである。

弁護人の腕の見せどころもそこにあると。

弁護人には、強制捜査の権限が与えられていないこともあって、事実関係の調査が難しく、事実にもとづかない単なる推測によって証人に質問し、その供述を得ようとするから、否認されてしまえば、それを覆すだけの資料がなく、結局、あきらめるよりほかないのが現実である。

被告人には黙秘権があるのは当然知っているが、嘘をついても偽証罪にならないのは忘れていた。
それはいいとしても、この事件のときのように、被告人が共犯者の事件の証人となるとそこでは嘘を言わない宣誓をさせられ、嘘をつくと偽証罪にもなる。この仕組みは現実的なのだろうか。結局、この事件で証人は偽証しまくってるし、誰も偽証罪を恐れている感じはないし、宣誓も雰囲気作りの意味合いしか現実にはないのかもしれない。

検事側は、共犯者の捜査段階における供述調書の任意性を証明する必要があり、共犯者を証人喚問した。
では、なぜ共犯者の証言によって任意性が証明されるのかについて。

(共犯者である)国松滋が宣誓のうえ、検察官の尋問に答えて、犯罪事実について証言しているわけだが、これは公判廷におけるものであり、裁判官たちがみたところでも、証人が不当に誘導されたり、脅迫されたりしている形跡はない。つまり国松滋の証言は、任意による供述ということになる。
 
だから、公判廷で彼が証言した内容が、そのまま警察の供述調書に記載されている内容と、荒筋において符合するならば、その供述調書にも、やはり任意性が認められ、証拠としてよいことになる。

要は任意性を疑われると、より時間がかかってしまうということだ。

こんな迂遠な方法をとらずとも、法廷で国松滋が証言した事実を証拠にすれば、被告人の犯罪事実が証明されるのではないかと言う人もあるだろう。しかし、忘れてならないのは、被告人自身が公判廷において全面的に起訴事実を否認しているという点である。被告人が否認しているのに、共犯者の証言だけで、有罪判決を下すことは極めて危険である。

検事は、裁判官と違って、一般の官庁並みに相互に情報を交換し合って職務を遂行するのが原則である。
検察官は行政官であって、司法官ではないのだ。
したがって、裁判官のように「職務の独立性」の原則に支配されることはなく、むしろ職務遂行上の一体性が確保されているのだ。

「然るべく」とは、法廷において検察官がよく使う慣用語であって、「裁判所の判断にまかせます」という意味である。


サブコンテンツ