ひとたびはポプラに臥す(6)/宮本輝著

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hitotabiha6
先日読んだ(4)に続いて最終巻の(6)。

なぜ、変則的にこの2冊のみかというと、諸事情によりこの2巻のみしか持っていないためという、いい加減な私の性格ゆえ。
とはいえ、作者や編集者の意図にはそぐわないかもしれないが、この2冊のみ読んでも十分楽しめる内容だったことは明言しておきたい。

以下、心に留まった箇所。

宮本氏の喋り方が人に比べて遅いという話。

私は本来せっかちだが……喋り方が、他の人と比してゆっくりだということに、私は長い間気づかなかった。たまにテレビに出演したり、新聞記者のインタビューに応じたりすると……通常よりも早口で喋ろうと努力する。それは私の神経を疲れさせる。だがそれでも、「もっと早く喋ってあげたら?」と妻に言われる。相手のためにできるだけ早く喋ってあげようとして、言わずもがなのことを言ったり、しなくてもいいサーヴィスをしたりして、しかもそれが正確に報じられないときの腹立ちにこりごりしたのだ。

私自身は決して喋るのが遅いほうではないが、お客さんとの話やプレゼンの際に同じく「言わずもがなのことを言ったり、しなくてもいいサーヴィスをしたり」して、後で後悔することがままあるなと共感。

 
催眠術の名人と呼ばれる人に、知人がかかった際の話。

目と目が合った瞬間、意識が遠くなりかけ、そんな自分に抗って懸命に相手の目から視線を他のものに移した。それは短い時間だったが、くらくらっとしてから、自分の意識にねじれが生じて、自分が自分でなくなるような、眩暈とも浮遊ともつかない感覚に襲われながらも、相手の目がいかなる動きをしたのかを見逃さなかった。どんな目だったのかというと、片方の目は十センチ離れたところにあるものに焦点が合っていて、もう片方の目は何キロも先のものに焦点が合っている目だった。その二つの目で自分を見たのだ。

催眠術なんかかからないだろと思う方だが、この記述を読んで考えが変わった。そんな目で見られたら、自分もイチコロの気がする。

イスラム教は徹底して偶像崇拝を拒否するので、「本尊」に対する論争というものは生まれない。そこが世界で六億人とも言われるイスラム教徒の、混沌としつつも揺るがない強さであるのかもしれない。

そういう面もあるのかもしれないが、揺るぎまくっている昨今を鑑みるに、説得力がなくなってきている。

 

パキスタンでは7,000メートル以下の山には名前をつけない

ほんまかいなっ!

 

朝顔の種を蒔いて、ジャックの豆の木とおんなじように、俺の朝顔も、すぐに芽を出して、それが、ものすごいスピードで天まで伸びていけへんかなァって、息を殺して見とったことがある

この一文を読んで、やたらワクワクした。確かではないが、自分にもそんな経験があったような気がする。

 
フンザの夜。

私はその晩、死んだ父を思い、母を思って、いつまでも眠れなかった。私は、いつ死ぬのであろう。そして、死んだらどうなるのであろう。そのことをこれほどまでに考えつづけた夜はなかった。

誰しも、同じような心境になることはあるのだろう。
その時頭に浮かぶのは、生きている人ではなく、死んでいった自分の肉親なのだなァ。

 

なぜなのかわからないが、それが「好き」だったからこそ、他の人がどんなに別の道を勧めようとも、そして、ときに他の事柄に目移りしようとも、結局はその道の奥深くへと進みつづけることができたのだ……さまざまな障害や難関や自らの壁に懊悩呻吟しながらも、ひとつの事柄を好きで好きでたまらないということ自体が、才能である。並外れて、あることが好きだということが、すでに才能なのだと私は思っている。

同意。好きこそものの上手なれというが、才能もないとダメという現実論もある。しかし、そもそもダメと言われても突き進む「好き」を持っていることが「才能」なのだと。
アスリートの世界の話でいえば、為末さんが「才能」がないと一流にはなれないと主張し議論を巻き起こしていた。記録という明確な指標があるアスリートの場合は、それは揺るがないだろう。たとえどんなに好きであったとしても。ただ、ジャンルによっては圧倒的に「好き」だと、圧倒的な「結果」を残せるものが多いのも確かである。

 

本人がそれを快楽と気づいていないだけのことで、じつは金を得たいのではなく、金儲けそのもののために智力と体力の限りを尽くしつづけることが快楽だという人が、いかに多いか。

よくわかる話。金が欲しいのではなく、金儲け自体がしたいという。

 
中国について。

わずか五十年に満たない中国の共産主義の光と闇も、長い長い未来においては、歴史における小さな点として残るだけかもしれない……主義や権力よりも、人間のほうが強いということを、我々は歴史から学んできたはずなのだ……いっときの体制によって一国の悪口を言うべきではない。主義や体制とは別の次元で、人間と人間のつきあいをつづけなくてはならない。

主義主張は移りゆくもの。

 

頭にたんこぶなんか作ったのは何年ぶりかなァ。子供のときは、しょっちゅう、たんこぶばっかり作ってた……。なんで子供って、頭をあちこにぶつけるのかなァ……たぶん子供って、おとなには想像がつかないくらい動きが烈しいんだろうな。それと、目的物しか見てない……。あそこへ行こうと思ったら、あそこしか見ない。

確かに、大人になってからたんこぶは作らない。

 

クンジュラーブ峠を越えて以来、目にしつづけたものは、パキスタン北部の美しさであった。パキスタンというと、私たち日本人は、カラチ空港でのかつてのテロ事件や、宗教紛争などの断片的な情報しか持ちあわせていないが、私が見たパキスタン人は、陽気で、したたかで、勤勉で、人間臭く、誇り高い。パキスタン北部の険しい山岳地帯は別にして、人間が住める地域に一歩足を踏み入れれば、手入れされた畑や果樹園が、どことなく日本の農村に似た雰囲気でひろがっていて、土地は肥沃で、水は豊富で、人々は生命力に満ちているのだった。

この一節で、一気にパキスタンへの興味を掻き立てられた。

 
マリファナは煙草より習慣性がないというガイドのカエサルの言葉に対して

習慣性のない快楽なんてこの世にないよ。万引き、のぞき、痴漢、果ては殺人まで、それがその人にとって快楽なら、一回で終わるはずがない

快楽性の強さにもよりそう。

 

わたしは精神安定剤を飲んで服んで眠った

意外と日本でも精神安定剤は処方されているものなのだろうか。自分のイメージだと、自分へのプレッシャーが強い人が精神が不安定になったり、安定剤や睡眠薬を飲んだりする。自分は生来の楽天家気質かたいしてプレッシャーを感じない性質のような気がしてはいる。もしくはのうのうと生き過ぎているという自戒もあり、精神安定剤を飲んでいるような人に引け目も感じていたりもする。

 
宗教感。

「死」とは何か……。仏教は、このたったひとつの問いかけから始まったはずなのだ。だが、その唯一の謎の解明のために、かくも厖大な経典を必要としたのはなぜなのか。答えが「理」としてあまりに単純明快だったために、かえってそれが人々を迷妄の闇に誘う恐れがあった。そのために答えを出すための準備段階を周到に用意しなければならなかった。その答えを信じさせるために、信仰についての人間の脆弱さを鍛えなければならなかった。

「死」がなければ宗教も存在しえないのだろうか。考えても仕方がない話だが。

 

やがて私には、旅のあいだじゅう私につきまとった「虚しさ」の正体が見えてきた……私は私という人間に絶えず「いんちき臭さ」を感じつづけていたことに気づいたのだ……極貧の村々が、砂漠が、砂嵐が、蜃気楼が、オアシスの民が、カラコルムの峰々が、これでもかこれでもかと、私のいんちき臭さを白日の下にさらしつづけていたのだ。

自分自身のいんちき臭さ。自分も感じることはある。
日本にいて日常生活を過ごしていても感じるものだが、それが余計なものがそぎ落とされた発展途上国に行くと、さらけ出されてしまうのだろう。

 
読み始めた最初の頃は、例えば村上春樹のエッセイに比べてユーモアが少なく、旅情を誘うでもなくやや退屈かなとも思っていたのだが、素の宮本輝が感じられ、しかももがいている様が感じられ、だんだん共感するようになってきた。

いずれ、残りの4冊も読んでみたいが、自分の性格からして、おそらくそれまでには五年はかかりそうな気がする。

最後に、フンザの街で、「日本に帰って現像したら、何も写ってなかったっていう夢を見るんです……もう、いい写真なんか撮れなくてもいい。頼むから普通に写ってくれって心境ですよ」と宮本氏に向かって心情を吐露していたカメラマンの田中勇人氏の写真は、この巻でもいい味を出しているので、それを紹介して最後としたい。

hunza
闇が迫るフンザの集落(表紙にもなっている)

collectingnuts
木の実採り

stonepiledpath
石積みの路地

ultar
ウルタル峰

backfromschool
学校帰り

stars
満点の星


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